4月5日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1金曜日 旧暦  2月27日、仏滅(己亥)、月齢 25.7  
グレゴリオ暦で年始から96日目、年末まであと270日。
誕生花 イチジク・藤・ワスレナグサ・オオアラセイトウ。

小笠原返還記念日。
1968(昭和43)年4月5日、当時、小笠原諸島の立法、行政、司法権を握っていたアメリカ合衆国との間で小笠原返還協定が締結され、小笠原諸島は同1968(昭和43)年6月26日、日本に復帰した。小笠原諸島は、東京都特別区の南南東約1,000kmの太平洋上にある30余の島々で、東京都小笠原村の区域と完全に一致する。東京都小笠原村の中心的機能を担う島、父島と、その南約50kmにある母島は小笠原村に属しており、一般の住民が居住し、住民登録を受付けられている。また、父島には、海上自衛隊横須賀地方隊の父島基地分遣隊が常駐している。小笠原諸島で最大の島で、父島から約300km離れた活火山の火山島、硫黄島には、海上自衛隊の硫黄島航空基地隊等と、航空自衛隊の硫黄島基地隊が所在している。本州から約1,800km離れた日本の最東端、南鳥島には、海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊が常駐して、飛行場施設等を管理している。また、国土交通省の気象庁、及び関東地方整備局等も施設を設け、その職員等に限って、業務目的で常駐している。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は小さい。春から初冬にかけて台風の接近・影響を受けることが多い。梅雨前線は、この地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる。1972(昭和47)年10月16日に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。小笠原諸島は、形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれる程、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持込んだ生物や島の開発等が原因で、オガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロ等の動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物等、幾つかの固有種は絶滅の危機に瀕している。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また、陸上では、人間が持込み野生化したヤギも生息している。2011(平成23)年には、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(自然遺産)に登録された。1670(寛文10)年、紀州(現在の和歌山県)を出港した蜜柑船が母島に漂着し、八丈島経由で伊豆下田に生還、島の存在が下田奉行所経由で江戸幕府に報告された。この報告例が、小笠原諸島の最初の発見報告と考えられている。1675(延宝3)年には、江戸幕府が漂流民の報告を元に、水軍として有名な松浦党(肥前国松浦地方[現在の長崎県平戸市周辺]で組織された松浦氏の武士団の連合)の島谷市左衛門尉を小笠原諸島に派遣する。調査船『富国寿丸』は島々の調査を行ない、「此島大日本之内也」という碑を設置した。調査結果は将軍を始め幕府上層部に披露され、これ以降小笠原諸島は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた。1785(天明5)年、「寛政の三奇人」の1人とされる経世論(今日でいう経済学のみならず、政治学・政策学・社会学等、極めて広範な領域をカバーする学問)家で全国を行脚した林子平の地理書『三国通覧図説』に「小笠原島」という名称が現れる。但し、林子平は小笠原諸島を訪れていない。1810(文化7)年、江戸幕府天文方(天体運行、及び暦の研究機関)高橋景保が、蘭学系世界図『新訂万国全図』(当時世界最高水準の世界地図とされる)に「無人島」を記入する。19世紀になると、欧米の捕鯨船が寄港するようになる。1847(弘化4)年、土佐国(現在の高知県)の漁師、ジョン万次郎がアメリカの捕鯨船に乗って小笠原に来航。1853(嘉永6)年には、アメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリーが日本来航の途中、沖縄を経て父島二見港に寄港。島民のために牛、羊、山羊や野菜の種子を与え、石炭補給所用の敷地を購入した。1862(文久元)年、江戸幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じ、アメリカから帰還したばかりの軍艦『咸臨丸』で、小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣、測量を行なう。また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼掛け、同意を得る。同年6月(文久2年5月)、駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告。一行が小笠原諸島を巡視した際、作成した小笠原島視察復命書に「島々の配置は、南北に連なり、あたかも家族のように並んでいるので、中央を父島群島、南を母島群島とし、北を聟島群島とする」と記載され、これが父島、母島、聟島の由来にもなった。1876(明治9)年3月、小笠原島の日本統治を各国に通告(日本の領有が確定)し、内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)の管轄となる。日本人37名が父島に定住し、内務省出張所が設置される。1880(明治13)年10月8日には、東京府(現在の東京都の前身)の管轄となる。大正時代以降の第二次世界大戦前は、トラック諸島(南太平洋西部の洋上にある、現在のチューク諸島)やサイパン島(北西太平洋とフィリピン海の境界付近に位置する北マリアナ諸島の中の島)等の南洋に向かう船が、半月に一度寄港していた。現在のようなビニールハウスがなかった時代、小笠原では季節外れの果物や野菜を栽培して本土に送っており、本土でもてはやされたため、住民は豊かな生活を送っていた、と言われる。第二次世界大戦時に硫黄島は激戦地となり、父島等も日本軍により要塞化される(父島要塞)。小笠原諸島は第二次世界大戦後、「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約、昭和27年条約第5号)」により、アメリカ海軍の占領下に置かれた。1967(昭和42)年11月16日、小笠原諸島の日本への返還が決まる。そして、1968(昭和43)年4月5日には、日米間で小笠原復帰協定が締結された。同年6月26日、「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(小笠原返還協定、昭和43年条約第8号)」が発効し、小笠原諸島は日本に返還され、東京都小笠原支庁が設置され、小笠原諸島全域を領域とする小笠原村が設置される。なお、1944(昭和19)年9月2日、アメリカ軍による日本軍の父島無電塔爆撃の際、海軍中尉ジョージ・H・W・ブッシュらの搭乗した艦上雷撃機が日本軍により撃墜されている。アメリカの主力潜水艦であったガトー級潜水艦『フィンバック』により救助されたジョージ・H・W・ブッシュは、後の1989(平成元)年、アメリカ合衆国第41代大統領になる。2002(平成14)年、アメリカ合衆国大統領退任後のジョージ・H・W・ブッシュは父島を訪問し、自らの乗機撃墜時に戦死した同僚を悼み、記念植樹を行なっている。小笠原諸島では、固有の植物や海産物が多く採れ、ボニンコーヒー、海亀肉、島魚を使った焼き物・煮物・島寿司・味噌汁・ピーマカ(魚の酢漬け、ビネガーの転訛)、パッションフルーツ・マンゴー・パパイヤ・グァバ等を用いたデザートやリキュール、ダンプレン(ダンプリング、欧米系住民の食文化)等がある。