4月3日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

ペルー日本友好の日。
ペルー政府が1989(平成元)年8月20日に制定。1899(明治32)年4月3日、日本人移民790名が鋼製汽船『佐倉丸』でペルー中部のアンコン港に上陸した。1887(明治20)年にイギリスで竣工した『佐倉丸』は、日清戦争の時に日本政府が購入し、当時、日本陸軍東京第1師団佐倉歩兵第2旅団歩兵第2連隊があった千葉県佐倉に因んで「佐倉丸」と名付けられた。1896(明治29)年11月1日には陸軍省より、日本の三大海運会社の1つで、三菱財閥(三菱グループ)の中核企業の1つでもある日本郵船に払下げられ、ハワイへの移民輸送等に従事した。そして、民間移民請負会社によりチャーターされ、ペルー移民第1船として横浜港から出港し、約790名の移民をペルーへ運んだ。ペルーへの集団移民は、南アメリカへの集団移民としても最も古いものであり、新潟県や山口県、広島県出身者が多かった。後続の移民では、沖縄県や九州地方の出身者が増えていく。言葉や生活習慣の違いの他、重労働や相次ぐ賃金の不払い等といった劣悪な労働環境もあり、移住者達と農場主側が対立する場面もあったが、日本政府の尽力も功を奏し、対立は終息へと向かう。ペルーへの移民事業は続き、1923(大正12)年に移民契約が廃止されるまで、17,764名もの日本人がペルーへ移住することとなった。蓄財に成功した移住者はリマ首都圏に集中し、理容師や雑貨店を営んだ。次第に日系人の組織化も進んだが、特定の職種に集中し、ペルーへの居住を一時的な出稼ぎと捉え、稼ぎの多くを日本に送金し、日系人同士で固まって現地の住民と交流を持つ機会が少なかった日系人は、ペルー社会で反感を買うことにもなった。1930年代以降、日米関係が悪化すると、それに伴ない、親米的なペルーの政府や寡頭支配層にも、日系人社会への反感が強まった。第二次世界大戦対米英戦の開戦後、ペルー政府は集会の禁止、日本語新聞の発行禁止、日系人資産の凍結措置と共に、アメリカ合衆国の要請に応じて、約2,000名の日系人を北アメリカの強制収容所に送った。第二次世界大戦終戦後、大正時代に結成されていたペルー中央日本人会が復活し、1984(昭和59)年には、ペルー日系人協会として発展解消した。南アメリカ西部に位置するペルーは、紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国であったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地となっていた。ペルーの文化はインカ帝国や、それ以前から続く前インカ期からのインディヘナの文化と、16世紀にペルーを征服したスペイン人の文化に根を持ち、その上にアフリカ系住民や近代になって移住してきたアジア系、ヨーロッパ系の諸民族の影響も受けている。ペルーは、南アメリカ大陸の太平洋岸の資源地帯を巡る、主に海戦が主体であった戦争、太平洋戦争の当事国である。1879(明治12)年4月3日、それまで問題になっていたアントファガスタ(チリの北部にある太平洋に面した港湾都市)のチリ硝石(当初は火薬の製造、その後は肥料の製造に用いられた、硝酸ナトリウムを主成分とする鉱物)鉱山を巡って、東隣にある同盟国ボリビアと共に、南に隣接するチリに宣戦布告され、三国で太平洋戦争を争った。係争3ヶ国の主要鉱石がチリ硝石であったことから「硝石戦争」とも呼ばれる。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握ったチリ軍に首都のリマを占領されて敗北した。沿岸部の領土を失ったボリビアは内陸国となったが、主力は海兵隊であるものの、現在でも組織として独立した海軍を保有している。現在でも、ボリビアはチリとの正式な国交を回復しておらず、天然ガスの輸出用パイプラインを、南アメリカ南部に位置するアルゼンチン領土を越えて、遥か大西洋側に伸ばしている。一方、チリとペルーとの間の国交は回復しており、両国間には鉄道が設置されている。なお、この太平洋戦争は、1941(昭和16)年に起きた太平洋戦争(全世界的規模の巨大戦争となった第二次世界大戦の局面の1つ、第二次世界大戦対米英戦)との関係はなく、ただ名称が同じというだけである。ペルーの民族構成は非常に複雑で、多様な人種から構成されている。1990(平成2)年7月28日には、農業工学者・数学者で日系二世のアルベルト・フジモリがペルーの第91代大統領に就任した。日本とペルーとの外交も積極的に行なわれるようになり、ペルーは日本からの融資等も多く引入れることに成功した。その後、アルベルト・フジモリは、2000(平成12)年に大統領を罷免され、事実上日本に亡命した。アルベルト・フジモリの娘で、父が大統領在任中にはペルーのファーストレディを務めたケイコ・フジモリは、ペルー大統領選挙に2回出馬したが、2回とも次点で落選した。なお、1996(平成8)年12月17日(現地時間)には、在ペルー日本大使公邸占拠事件が発生している。青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行なわれていた時、当時空き家となっていた大使公邸の隣家の塀が爆破され、覆面をした一団がレセプション会場に乱入し、制圧・占拠した。その場にいた青木盛久大使を始めとする大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600名が人質となり、翌1997(平成9)年4月22日にペルーの軍と警察の特殊部隊が突入して人質解放されるまで、事件の解決は約4ヶ月以上掛かってしまう。当時のペルーの大統領であったアルベルト・フジモリらは、事件発生翌日には武力突入を検討していた。これに対し、日本が「平和的解決を優先してほしい」と勧めたことにより、即時の武力突入を断念した。事件直後から五月雨式に続いた解放により、人質の数は、4月の事件解決時には72名となった。リマ市内の日本料理レストランからは毎日、日本料理やインスタントラーメン等が届けられ、また、多数の日本の報道陣がリマに詰掛け、リマ市内のあらゆる日本料理レストランから膨大な量の日本料理の出前を取ったため、日本料理レストランの多くは、「特需」とも言われるような盛況を享受した、と言われている。1997(平成9)年2月から掘削を進めていた公邸地下のトンネルを利用した突入作戦が実施され、最後まで拘束されていた72名の人質(日本人の人質は24名)の内、71名を救出した。作戦は成功し、殆どの人質は無傷で解放されたが、フランシスコ・トゥデラ外務大臣や青木盛久大使ら複数の重軽傷者を出した他、人質のカルロス・ジュスティ最高裁判事と特殊部隊隊員2名が死亡し、犯人グループの構成員は14名全員が死亡した。外交関係の職に就く人物が多い家系に生まれた青木盛久は、外務省に入省した後、国際連合代表部公使、駐フィリピン公使兼マニラ総領事、外務大臣官房審議官、国際協力事業団青年海外協力隊事務局長等を歴任し、1994(平成6)年に駐ペルー日本国特命全権大使に就任した。在ペルー日本大使公邸占拠事件の際、救出時に胸や足に重傷を負ったものの、人質の大使館員やペルー政府要人、日本企業の駐在員らと共に救出された。その後は、1998(平成10)年に東アフリカに位置するケニアに赴き、駐ケニア特命全権大使となるが、その際には、ケニアとその隣国、タンザニアのアメリカ大使館が爆破された、1998年アメリカ大使館爆破事件に遭遇した。