3月28日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0193年 - 名家の一族であったディディウス・ユリアヌス(マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌス)が、親衛隊の帝位の「公開競売」を落札してローマ皇帝に即位。「金で帝位を買った」として、民衆からも冷ややかな態度で迎えられ、ディディウス・ユリアヌス(マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌス)の治世は短命に終わる。
0364年 - ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世が、弟のフラウィウス・ユリウス・ウァレンスを共同皇帝とする。 
1531年 - 中嶋の戦いが始まる。中嶋の戦いは、山城国守護代三好元長と室町幕府管領細川高国らにより、摂津中嶋(現在の大阪市北区に所在)と天王寺(現在の大阪市天王寺区に所在)周辺で行なわれた戦いで、別名「天王寺の戦い」とも呼ばれており、その後の大物崩れ(同年7月17日に、摂津大物[現在の兵庫県尼崎市大物町に所在]で行なわれた合戦で、細川高国らが敗死する)に繋がっていく。 
1802年 - ドイツの医師・天文学者・物理学者、ハインリヒ・オルバースが、小惑星帯(アステロイドベルト、太陽系の中で、太陽系第四惑星の火星と、太陽系第五惑星の木星との間にある小惑星[太陽系小天体の内、星像に拡散成分がないものの総称]の軌道が集中している領域)にある、ケレスに次いで大きい小惑星、パラスを発見する。その後、小惑星として初めて発見された天体でもあり、小惑星番号1番を持つケレスが準惑星(太陽の周囲を公転する惑星以外の天体の内、それ自身の重力によって球形になれるだけの質量を有するもの)に分類されたため、パラスは小惑星帯最大の小惑星となる。2007年には、地上約600km上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡(地球の衛星軌道上等の宇宙空間に打上げられた天体望遠鏡)、ハッブル宇宙望遠鏡により、パラスの映像が撮影され、正八面体に近い形が確認されている。 
1854年 - クリミア戦争: イギリス・フランスがロシア帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が開戦。 
1861年 - 元号が、万延から文久に改元される。 
1871年 - フランスの首都パリの市庁舎で、パリ・コミューンの成立を宣言。パリ・コミューンは、史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言したパリの自治市会(革命自治体)である。約2ヶ月でヴェルサイユ政府(臨時政府)軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間の内に実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えることとなる。 
1876年 - 「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(廃刀令、帯刀禁止令、明治9年3月28日太政官布告第38号)」発布。大礼服(宮廷服で最上級の正装)着用者、軍人、及び警察官以外の者が、刀を身に付けることを禁じる。なお、禁止されたのは帯刀であって、所持、又は所有そのものが禁止された訳ではない。しかしながら、帯刀は元々、実戦的武備というよりは、武士の身分の証明としての意味合いが大きく、それを否定することは、実質的な特権の否定であり、国家が国民に兵役に服する義務を課す徴兵制度を定めた「徴兵告諭(徴兵令、明治5年11月28日太政官布告第379号)」、及び秩禄処分(秩禄給与の全廃政策)と共に、アイデンティティーの1つの否定となる。「廃刀令」に反発した者は、刀を袋の中に入れて持歩いたり、刀を肩で担いで歩いたりしたという。 
1890年 - 日本最初の民間鉄道車両メーカー、平岡工場(後の汽車製造[鉄道車両メーカー]東京支店、さらにその後、川崎重工業[輸送機器や機械装置の大手メーカー]に吸収合併される)が開業。日本の鉄道車両は、1872年の京浜間鉄道の開業以来、一貫して輸入で賄われ、客車や貨車はその後、国内製造が開始されたが、当時は民間の重工業が未熟であったため、これら客貨車の製造は、各鉄道事業者が自営工場で行なっている。工部省(明治政府の官庁の1つで、殖産興業[明治政府が西洋諸国に対抗し、産業、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策]を支えた中央官庁)鉄道局新橋工場の技師であった平岡凞(アメリカへ自費留学し、機関車・機械類製造技術の他、野球を修得して、日本で初めてカーブを投げた人物、また、日本で最初の野球チーム創設者と言われている)は、そのような状況を打開して、車両のさらなる国産化を推進するには、民間に鉄道車両工業を興すべきと考え、1890年、鉄道局を辞して、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)の陸軍東京砲兵工廠の敷地・設備を借用し、日本資本主義の父と称される元大蔵官僚で実業家の渋沢栄一や、草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家、益田孝らと匿名組合平岡工場を設立する。その後、改組により、平岡工場は平岡凞の個人経営となっている。1895年には、京都電気鉄道へ28人乗り路面電車車両の車体を納入したが、これは、日本初の営業運転に供された電車であり、後に京都電気鉄道が市営化されて京都市電になった後「N電」と呼ばれた、狭軌線用車両群の第1陣に当たるものである。その後、1896年3月末をもって陸軍東京砲兵工廠の借地を返納し、翌4月より、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)の総武鉄道本所駅(現在の東日本旅客鉄道[JR東日本]総武本線錦糸町駅)の隣接地に、自前の工場を開設している。平岡工場は、客貨車製造の国内最大手として発展し、1897年末に、日本最初の近代的労働組合である鉄工組合が結成された際には、平岡工場からは、43名が組合員として参加している。平岡工場の登場は、鉄道車両工業への新規参入の呼び水となり、1896年に日本車輌製造(名古屋で創業した老舗の大手大型機械メーカー)と汽車製造が設立され、1908年には川崎造船所(現在の川崎重工業、鉄道車両部門は、現在の川崎重工業車両カンパニー)が鉄道車両製造に参入する。中でも汽車製造は、平岡凞の鉄道局時代の上司である井上勝(元周防国/長門国長州藩藩士で、明治政府の工部官僚となり、鉄道発展に寄与したことから、日本の鉄道の父と呼ばれる)の会社であったため、1899年の開業に当たり、業界随一の技術と実績を持つ平岡凞を副社長として迎えている。1896年の会社設立後、1899年には、大阪市西区島屋新田(現在の大阪市此花区島屋で、現在の西日本旅客鉄道[JR西日本]桜島線安治川口駅前)に工場を開設していた、汽車製造の設立当初から、平岡工場の買収構想が出ては消えていたが、平岡工場の経営は順調で、多大な利益を出していたため、平岡凞は汽車製造への工場譲渡を固辞し続けが、元周防国/長門国長州藩藩士で、明治政府の数々の要職を歴任した政治家の井上馨や、渋沢栄一の説得に折れ、1901年7月には、平岡工場の一切を汽車製造に譲渡し、工場はそのまま汽車製造東京支店となって、合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造する。1972年、汽車製造は、兵庫県神戸市に本社のある川崎重工業と合併する。川崎重工業を存続会社として、汽車製造を解散する形の吸収合併で、汽車製造は会社設立76年目で終結することとなる。 
1894年 - 朝鮮の近代化を目指し、日本や中国と同盟し、3国でアジアの衰運を挽回するべき、という「三和主義」を唱えた、李氏朝鮮後期の政治家、金玉均が、中国東部にある上海で、朝鮮政府の刺客により暗殺される。 
1901年 - 「北海道会法(明治34年3月28日法律第2号)」と「北海道地方費法(明治34年3月28日法律第3号)」が公布され、北海道が府県と同等の地方公共団体となる。 
1913年 - 所沢陸軍飛行場(埼玉県入間郡所沢町[現在の所沢市]並木に所在した、日本初の航空機専用飛行場)で着陸寸前の陸軍機が墜落し、操縦していた木村鈴四郎陸軍中尉と、同乗者の徳田金一陸軍中尉が死亡する。これが、日本初の飛行機死亡事故となる。