3月28日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

三ツ矢の日/三ツ矢サイダーの日。 
古くから親しまれている、日本を代表する清涼飲料水の三ツ矢サイダー。その製造販売元となっている、東京都墨田区吾妻橋に本社を置く清涼飲料水メーカー、アサヒ飲料株式会社が、2004(平成16)年に制定した。日付は、3月28日の「3」と「28」で、「三ツ矢(み[3]つ[2]や[8])」の語呂合せから。古くから親しまれている、日本を代表する炭酸飲料の三ツ矢サイダー。その美味しさを再発見してもらうために、商品をPRすることが目的。三ツ矢サイダーの起源は、明治時代に宮内省(宮内庁の前身)が、兵庫県川辺郡多田村平野(現在の兵庫県川西市平野)の平野鉱泉を用いて、炭酸水の御料工場を建てたことに始まる。その後、工場は三菱財閥(造船業・鉱業・金融・鉄道・貿易等の幅広い分野に進出した巨大企業集団)に払下げられ、食料品・和洋酒類の小売業者である明治屋(現在は東京都中央区に本社が所在)が権利を得て、1884(明治17)年に「三ツ矢平野水」として販売した。「三ツ矢平野水」は、日本を代表する文豪の1人である作家・評論家・英文学者、夏目漱石の長編小説『行人』や随筆『思い出す事など』にも登場し、また、1897(明治30)年には皇太子嘉仁親王(後の第123代天皇、大正天皇)の御料品に採用された。この「三ツ矢平野水」をベースに、1907(明治40)年に帝国鉱泉株式会社が設立され、砂糖を煮詰めたカラメルや、イギリスから輸入したサイダーフレーバーエッセンスを加えた「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」が発売された。さらに、1909(明治42年には「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称した。帝国鉱泉株式会社は1922(大正11)年、ビールメーカーの加富登麦酒、製壜会社の日本製壜と合併して日本麦酒鉱泉株式会社(ユニオンビール)となり、さらに、1933(昭和8)年、ビールメーカーの大日本麦酒株式会社(アサヒビール・サッポロビール・ヱビスビールを製造販売した三井財閥系の会社)に合併されたが、三ツ矢サイダーはユニオンビールと共に、引続き製造販売された。1949(昭和24)年、大日本麦酒株式会社は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が指示した「過度経済力集中排除法(集排法、昭和22年12月18日法律第207号)」に基づく会社分割により、朝日麦酒株式会社(現在のアサヒグループホールディングス株式会社)と日本麦酒株式会社(現在のサッポロホールディングス株式会社)に分割された。三ツ矢サイダーは、ユニオンビールと共に朝日麦酒株式会社が継承し、第二次世界大戦前までの「アサヒビール・リボンシトロン(レモン風味の炭酸飲料)」の組合わせから、お馴染みの「アサヒビール・三ツ矢サイダー」の組合わせに代わった。1952(昭和27)年に人工甘味料から砂糖に切替えて「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」と改称したが、「シャンパン」の名称は、フランス中北部、シャンパーニュ地方で生産された物以外には使えないということになり、1968(昭和43)年に現在の名称である「三ツ矢サイダー」となった。1988(昭和63)年、製造部門が分社化されてアサヒビール飲料製造株式会社となり、1996(平成8)年に販売会社のアサヒビール飲料株式会社と合併し、アサヒ飲料株式会社となる。2004(平成16)年、香料を天然原料のものに、水を天然水100%に変え、よりすっきりした味に仕上げた。これがヒットとなり、業績不振から一転、V字回復を達成した。また、近年流行の兆しを見せる微炭酸へ移行することもなく、飲料事業会社、キリンが販売している炭酸飲料「キリンレモン」と並び、強炭酸の姿勢を守り抜く等して、根強いファンを持っている。「三ツ矢」の名の由来は、平安時代中期、源氏武士団を形成した第56代天皇、清和天皇の皇子や諸王を祖とする清和源氏の一門で、摂津源氏の祖、源満仲が住吉大社(現在の大阪市住吉区住吉にある神社)の神託(神のお告げ)に従い、三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田(現在の兵庫県川西市多田)に居城(新田城、多田城)を建てた、という伝説による。源満仲は、この矢を探すことに功労が大きかった孫八郎という男性に、領地と「三ツ矢」の姓と三本の矢羽の紋を与えた。そして、源満仲はある日、鷹狩りに出掛けた際、偶然居城近くの塩川の谷間で、一羽の鷹が、湧き出ている水で足の傷を治して飛立つのを目撃した。この湧水が霊泉として崇められ、付近の住民がこの天然鉱泉を入浴として利用し、明治初年頃まで「平野温泉郷」として存続した。江戸時代に平野鉱泉は、付近にある多田神社の用人(家老)、三ツ矢旗兵衛の領地であった。明治期になり、来訪した外国要人に提供する良質な水を探すため、明治政府は日本全国で水質調査を行なった。1881(明治14)年、イギリス人理学者のウィリアム・ガランが平野鉱泉の水を分析したところ、炭酸ガスを多く含み「理想的な鉱泉」と認定し、当地に炭酸水を汲む御料工場が建設されることとなる。平野鉱泉の水は「平野水」として広く世間に認知されるようになり、「三ツ矢」の商標も確立した。「平野水」は、岩波書店が発行している、日本の単巻辞書としては最大級の収録数を誇る中型の日本語国語辞典「広辞苑」第五版では、炭酸水の代名詞として記載されている。なお、伝説の元となった三ツ矢氏の墓は、兵庫県川西市の多田神社西隣の西方寺に現存する。三ツ矢サイダーは、現在販売されている清涼飲料水では老舗であり、一般に「日本初の(最古の)サイダー」とも呼ばれている。しかし、これは必ずしも事実ではない。日本で最初に製造販売されたサイダーは、1868(慶応4/明治元)年に武蔵国久良岐郡横浜村(現在の神奈川県横浜市中区)の外国人居留地(政府が外国人の居留、及び交易区域として特に定めた一定地域)で、商社兼薬局「ノース&レー商会」が製造販売した「シャンペン・サイダー」と言われている。薬剤師であったとされるイギリス人、ジョン・ノースは、イギリス海軍の軍人等の炭酸飲料を望む声に応えるため、自身の名を冠した「ノース&レー商会」を設立し、炭酸飲料製造のための機械や瓶、香料、酸味料等を輸入して、日本初となる炭酸飲料の製造販売を始めたとされる。この頃のイギリスは、大英帝国の名の下に、まさに世界を手中に収めようとするかのような勢いを誇っていた。アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社、東インド会社によるインドの植民地化の成功を足掛かりに、さらに東へとその食指を伸ばしている最中であった。横浜は、植民地任務に就くイギリスの海軍人や商人が往来する寄港地となっていた。そんなイギリス人達にとって、炭酸飲料は、喉の渇きを潤す用途とは別の重要な役割があった。例えば、ジントニックの材料として知られる炭酸飲料の1種、トニックウォーターは、熱帯地での任務に必須とされた。トニックウォーターには、第二次世界大戦前まで、マラリア(高熱や頭痛、吐き気等の症状を呈する、熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、悪性の場合は、脳マラリアによる意識障害や腎不全等を起こし死亡することもある)原虫(単細胞生物の内、生態が動物的なもの)に特異的に毒性を示すマラリアの特効薬として重用された「キニーネ」(南アメリカを原産地とする樹木、キナの樹皮の合成物質)が添加されていた。また、当時は、サイダーやレモネード等の炭酸を多く含んだ飲料には殺菌効果があると信じられ、急性の激しい下痢を伴なう腸管感染症、コレラ等の伝染病までも予防できると期待されていたという。植民地任務に奔走するイギリス海軍の軍人達にとって炭酸飲料は、命を救う水とすら呼べるものであったと考えられる。「ノース&レー商会」は、レモネード、ジンジャーエール、トニックウォーター等、10種類以上の炭酸飲料を製造した。「シャンパン・サイダー」と命名された炭酸飲料は、炭酸水にパイナップルとりんごの香料で味付けしたものであった。パイナップルがシャンパンに似た風味、そして、りんごがサイダーの風味をもたらしたことから、こう呼ばれたと伝わっている。当時、日本人で炭酸飲料を口にすることができたのは政府の高官等、一部の人々のみであったというが、この「シャンパン・サイダー」は好評を得たいう。