3月28日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4木曜日 旧暦  2月19日、友引(辛卯)、月齢 17.7  
グレゴリオ暦で年始から88日目、年末まであと278日。
誕生花 ヤマブキ・えんじゅの花・タツタソウ・ツゲ・ソメイヨシノ。

スリーマイルデー(スリーマイル島の日)。
1979(昭和54)年3月28日、アメリカ合衆国北東部、ペンシルベニア州ハリスバーグ近郊、スリーマイル島(サスケハナ川の中州にある)に所在するスリーマイル島原子力発電所で、重大な原子力事故が発生した。国際原子力機関(IAEA)と経済協力開発機構原子力機関(OECD/NEA)が策定した、原子力事故・故障の評価の尺度、国際原子力事象評価尺度(INES)において、レベル5の事例で、原子炉冷却材喪失事故(Loss Of Coolant Accident, LOCA)に分類され、想定された事故の規模を上回る過酷事故(Severe Accident)である。この重大な事故を忘れないよう教訓とする日。スリーマイル島原子力発電所は2つの原子炉を有し、その内2号炉は、アメリカの総合エンジニアリング企業で総合重機械企業、バブコック&ウィルコックス社(現在は資本を全て日本最大の総合電機メーカー、日立製作所に引渡している)が設計した加圧水型原子炉(PWR)で、電気出力は96万kWであった。事故当日、2号炉は営業運転開始から3ヶ月を経過しており、定格出力の97%で営業運転中であった。事故は1979(昭和54)年3月28日早朝(現地のアメリカ東部標準時)から起こった。2次系の脱塩塔のイオン交換樹脂を再生するために移送する作業が続けられていたが、この移送鞄管に樹脂が詰まり、作業は難航していた。この時に、樹脂移送用の水が、弁等を制御する計装(生産工程等を制御するために、測定装置や制御装置等を装備し、測定すること)用空気系に混入したために、異常を検知した脱塩塔出入口の弁が閉じ、この結果、主給水ポンプが停止し、殆ど同時にタービンが停止した。 二次冷却水の給水ポンプが止まったため、蒸気発生器への二次冷却水の供給が行なわれず、除熱ができないことになり、一次冷却系を含む炉心の圧力が上昇し、加圧器逃し安全弁が開いた。この時、弁が開いたまま固着し、圧力が下がってもなお弁が開いたままとなり、蒸気の形で大量の原子炉冷却材が失われていった。加圧器逃し安全弁が熱により開いたまま、固着してしまった。原子炉は、自動的にスクラム(緊急時に制御棒を炉心に全部入れ、核反応を停止させる)し非常用炉心冷却装置(ECCS)が動作したが、既に原子炉内の圧力が低下していて冷却水が沸騰しており、ボイド(蒸気泡)が水位計に流入して指示を押上げたため、加圧器水位計が正しい水位を示さなかった。このため、運転員が冷却水過剰と誤判断し、非常用炉心冷却装置は手動で停止されてしまう。この後、一次系の給水ポンプも停止されてしまったため、結局2時間20分開いたままになっていた安全弁から、約500tの冷却水が流出し、炉心上部約3分の2が蒸気中に剥き出しとなり、崩壊熱によって燃料棒が破損した。このため、周辺住民の大規模避難が行なわれた。その後、運転員による給水回復措置が取られ、事故は終息した。結局、炉心溶融(メルトダウン)で、燃料の約45%、約62tが溶融し、その内約20tが原子炉圧力容器の底に溜まった。給水回復の急激な冷却によって、炉心溶解が予想より大きかったとされている。放出された放射性物質は、化学的に非常に不活性な希ガス(ヘリウム、アルゴン、キセノン等)が大半で約92.5 PBq(約250万キュリー)、甲状腺に蓄積すると甲状腺ガンの原因になるとされるヨウ素は約555GBq(約15キュリー)に過ぎない。ウランの代表的な核分裂生成物であるセシウムは放出されなかった。このスリーマイル島原子力発電所2号炉の事故は、アメリカ映画『チャイナ・シンドローム』公開の12日後に起こった。『チャイナ・シンドローム』は、原子力発電所の取材中に事故に遭遇し真実を伝えようとする女性リポーター、杜撰な管理に気付き、事故を防ぐために命を懸ける原子力発電所管理者、不祥事を揉消そうとする利益優先の経営者といった人物達の対立を描いたサスペンス映画である。タイトルの「チャイナ・シンドローム」とは、原子力発電所事故の状態の内、核燃料が高熱によって融解(メルトダウン)して原子炉の外に漏れ出す、メルトスルーと呼ばれる状態を意味するために1965(昭和40)年以降、過酷事故を研究していた原子力技術者の間で使われていた用語で、もしアメリカ合衆国の原子力発電所が炉心溶融(メルトダウン)を起こしたとしたら、融けた燃料が重力に引かれて地面を溶かしながら貫いていき、地球の中心を通り越して、反対側の中国まで熔けていってしまうのではないか、というブラックジョークである。実際に原子力発電所事故で炉心溶融(メルトダウン)が起きたとしても、実際には、核燃料が地球の裏側まで到達するようなことは起こらず、また、アメリカ合衆国から見た地球の裏側(対蹠地[地球、或いは他の天体上で、ある場所とは180°逆に位置する場所])が中国というのも正しくないが、劇中に登場した「チャイナ・シンドローム」という用語は映画の公開を通じ、メルトスルーを意味する用語として、一般にも広がることになった。また、映画公開直後の事故発生は、「この映画を観た輩が事故を起こしたのではないか」等といった陰謀説が流布されたりする等、全米で大きな話題になった。さらに、『チャイナ・シンドローム』をきっかけに、それまで医学用語としてしか使われていなかった「シンドローム」(症候群)という言葉を、他の言葉と組合わせて「 - シンドローム」という造語にすることが流行し、社会現象等を表わす言葉としてしばしば使われるようになった。このスリーマイル島原子力発電所事故を受け、当時東京電力が唯一運転していた原子力発電所である福島第一原子力発電所でも、安全運転・管理体制の再点検が指示された。また、1983(昭和58)年11月30日、スリーマイル島原子力発電所事故を教訓に、日本で初めての原子力防災訓練が実施された。県、東京電力、警察、自衛隊、病院等、関係機関多数が参加したが、実施を強く働きかけたのは福島県である。当時福島県としては、住民の理解を得るため、机上のプランではなく、実際に住民避難を伴なった訓練が必要であるとの考えから、丁々発止の交渉を行ない、国と東京電力を「強引に説き伏せ」たという。その後、福島県の防災計画は修正を重ねながら、2011(平成23)年3月11日、東日本大震災を引起こした東北地方太平洋沖地震による地震動と津波の影響により、東京電力の福島第一原子力発電所で発生した炉心溶融(メルトダウン)等、一連の放射性物質の放出を伴なった原子力事故である福島第一原子力発電所事故への対応により、その真価を問われることになった。原子炉中の燃料集合体が(炉心を構成する制御棒やステンレススチール製の支持構造物等をも含めて)核燃料の過熱により融解する炉心溶融(メルトダウン)は原子力事故における重大なプロセスの1つであり、さらに事態が悪化すると、核燃料が原子炉施設外にまで漏出して極めて深刻な放射能汚染となる可能性がある。それに至らないまでも、溶融した炉心を冷却する際に発生する、放射性物質に汚染された大量の蒸気を大気中に放出(ベント)せざるを得ないことが多く、周辺住民の避難が必要となる等重大な放射能汚染を引起こす可能性がある。原子炉の炉心溶融事故が、実際に発生した最初の例とされているのは、アメリカ合衆国中西部、ミシガン州デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ原子力発電所にある高速増殖炉試験炉、エンリコ・フェルミ炉において、1966(昭和41)年10月5日に発生した事故で、事故の原因は、炉内の流路に張付けた耐熱板が剥がれ、冷却材の流路を閉塞したためである。この時には、制御棒が直ちに挿入されたことによって大事には至らず、放射性物質の大気放出も無かったが、後に、炉心融解事故について書かれたドキュメンタリーのタイトルは、『我々はデトロイトを失うところであった』(日本語翻訳版『原子炉災害 : ドキュメント』)となっていた。