3月26日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

鐵幹忌/冬柏忌。
歌人・詩人で与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹の1935(昭和10)年の忌日。与謝野鉄幹自身が創刊した文芸雑誌『冬柏』の名に因んで、「冬柏忌」とも呼ばれる。本名は与謝野寛で、鐵幹(鉄幹)は号(本名とは別に使用する名称)である。父の与謝野礼厳は、西本願寺(京都市下京区にある仏教寺院で、浄土真宗本願寺派の本山)支院、願成寺の僧侶であった。与謝野礼厳は、庄屋の細見儀右衛門の次男として生まれたが、京都府与謝郡(現在の京都府与謝郡与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めより与謝野姓を名乗るようになったという。与謝野鉄幹の質実剛健な作風は、「ますらおぶり」と呼ばれた。詩歌を中心とする月刊文芸誌『明星』を創刊し、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(後の与謝野鉄幹夫人、与謝野晶子)の類い稀な才能を見抜いて、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースした。与謝野晶子の名声は高く、『明星』における指標となる。同時に、『明星』の隆盛のきっかけともなった。しかし、1908(明治41)年に『明星』は、第100号をもって廃刊する。その後の与謝野鉄幹は、極度の不振に陥る。1911(明治44)年、与謝野晶子の計らいで、フランスの首都パリへ行く。後に与謝野晶子も渡仏し、フランス国内から、イギリスの首都ロンドン、オーストリアの首都ウィーン、ドイツの首都ベルリンを歴訪する。しかし、創作活動が盛んとなったのは与謝野晶子の方で、与謝野鉄幹は依然不振を極めていた。再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗する等、栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。1919(大正8)年、慶應義塾大学文学部教授に就任して、1932(昭和7)年まで在任し、作家・評論家・劇作家の水上瀧太郎、詩人・作家の佐藤春夫、詩人・歌人・フランス文学者の堀口大学、近代日本を代表する詩人・作詞家の三木露風、作家・随筆家・俳人の小島政二郎らを育てた。また、日本で初めての男女平等教育を実施しており、共学を実現した専修学校『文化学院』の共同創立者でもある。現在の東京都千代田区神田駿河台の地に、教養、料理、裁縫等の分野を教育する施設として設置されている各種学校として、1921(大正10)年に開校した『文化学院』は、一流人達による芸術・学問の教育を行なう快活で自由な学校を目指し、敢えて各種学校としたという。第二次世界大戦中に閉鎖命令を受けたが、戦後は講義を再開し、1972(昭和47)年には、専修学校(職業、若しくは実際生活に必要な能力を育成し、又は教養の向上を図ることを目的として組織的な教育を行なう施設)の認可を受けている。そして、2014(平成26)年、東京都墨田区両国にキャンパスを移転した。その後、経営不振により、千葉県浦安市明海に本部を置く了徳寺大学と統合され、2018(平成30)年3月末、『文化学院』は閉校となった。 
楽聖忌。
1827(文政10)年3月26日、ドイツの作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、オーストリアの首都ウィーンにあった自宅で亡くなった。18世紀のドイツで活躍した作曲家、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ等と並んで、音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作品は、古典派音楽(クラシック音楽の歴史において、1730年代から1810年代まで続いた時期の芸術音楽の総称)の集大成、かつロマン派音楽(古典派音楽を、それまでの理性偏重、合理主義等に対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であるロマン主義の精神によって発展させていった、ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽)の先駆けとされている。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツ西部にある都市ボンに生まれ、宮廷歌手であった父から音楽を学んだが、父はアルコール依存症であり、そのために14歳頃から家計を支えなければならなかった。後にピアニストとして有名になり、30歳頃には作曲家としても高い評価を得るようになっていたが、音楽家として致命的な聴力が減退し始め、絶望して「ハイリゲンシュタットの遺書」(日毎に悪化する難聴への絶望と、芸術家としての運命を全うするために、肉体、及び精神的な病気を克服したい願望を反映している文章)を書いたのは有名である。それでもルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、数々の苦難を乗越えて、交響曲、協奏曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲等に傑作を数多く残した。また、後世の作曲家に与えた影響には計り知れないものがある。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは死の3日前、甥のカールを唯一の相続人にするように遺言書を補足し、「諸君、拍手したまえ。喜劇は終わったのだ」という有名な言葉を呟いたとされる。3月29日の葬儀には、約2万の市民が参列し、宮廷歌手が棺を担いで、作曲家のヨハン・ネポムク・フンメルら弟子達がそれに続いた。しかし、数々の作品を献呈され、交際のあった貴族達は、誰も出席しなかった。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲家としてデビューしたての頃は、耳疾(難聴、聴覚が低下した状態のこと)に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な、明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ウィーン古典派を代表するオーストリアの作曲家であるフランツ・ヨーゼフ・ハイドンや、同じくウィーン古典派を代表するオーストリアの作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある。1802(享和2)年の1度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見することにより脱出した。つまり、ウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダ(楽曲において、独立して作られた終結部分をいい、主題部とは違う主題により、別に作られているものを指すことも多い)の拡張等、古典派形式の拡大に成功した。1818(文政元)年頃の2度目の危機の時には、後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー(単一の旋律要素の下に、複数の声部が和声を構築する音楽)全盛であった当時において、18世紀のドイツで活躍した作曲家で、バロック音楽(彫刻や絵画等と同じように、速度や強弱、音色等に対比があり、劇的な感情の表出を特徴とした音楽)の重要な作曲家の1人とされるヨハン・ゼバスティアン・バッハの遺産、複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法である対位法、つまり、ポリフォニーを研究した。対位法は、中期においても部分的には用いられたが、大々的に取入れることに成功し、危機を乗越えた。変奏曲(主題となる旋律が変奏され、主題と変奏の全体が1つの纏まった楽曲となったもの)やフーガ(遁走曲とも呼ばれる、対位法による音楽形式で、1つの主題[元になる旋律、メロディーのこと]を複数の声部が模倣しながら後続の旋律が次々に追掛け、又は絡み合いながら演奏する様式の曲)は、ここに究められた。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン以降の音楽家は、大なり小なりその影響を受けている。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものが殆どであった。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、そうしたパトロンとの主従関係(及び、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢(ものごとの始まり)となった。音楽家、イコール芸術家であると公言したルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの態度表明、また、その一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり、革命的とも言えるできごとであった。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの名は、原語であるドイツ語では、ルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン発音される。日本では、明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、程なく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、19世紀のドイツの作曲家・指揮者、リヒャルト・ワーグナーのように、複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、日本放送協会(NHK)、及び教科書における表記の「ベートーベン」である。 ハプスブルク=ロートリンゲン朝神聖ローマ帝国第3代皇帝レオポルト2世の末子である、オーストリアの貴族ルドルフ・ヨハネス・ヨーゼフ・ライナー・フォン・エスターライヒは、一般的には、ルドルフ大公(ルードルフ大公)の呼び名で、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのパトロン、及び弟子として知られている。ルドルフ大公(ルードルフ大公)は1803(享和3)年(1804[文化元]年という説もある)、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにピアノと作曲を師事した。その後、2人は意気投合し、ルドルフ大公(ルードルフ大公)はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの庇護者を務め、1824(文政7)年まで2人の交友は続いた。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに、保護者として年金を送り続けた貴族は他に2人いたが、最後まで絶やさなかったのはルドルフ大公(ルードルフ大公)のみであり、作曲家の大作や重要作を多く献呈されている。