3月26日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4火曜日 旧暦  2月17日、赤口(己丑)、月齢 15.7  
グレゴリオ暦で年始から86日目、年末まであと280日。
誕生花 ハナニラ・バラ(ピンク)・キンセンカ(橙)・桜草(白)・シュンラン。

カチューシャの唄の日。
1914(大正3)年3月26日、新劇運動(ヨーロッパ流の近代的な演劇[芸術志向的な演劇]を目指す日本の演劇)の先駆けの1人として知られる劇作家・作家・詩人、島村抱月と、文芸協会(新劇運動の母体となった文化団体)演劇研究所の看板女優であった松井須磨子が興した劇団『芸術座』が、ロシアの作家・思想家、レフ・トルストイの代表作である長編小説を舞台化した『復活』の初演を行なった。舞台『復活』は評判になり、各地でも興行が行なわれたが、この中で歌われた『カチューシャの唄』が大流行した。『カチューシャの唄』の作詞は、島村抱月と詩人・歌人の相馬御風、作曲は、多くの傑作と言われる童謡・流行歌・新民謡等を残した作曲家の中山晋平。劇団『芸術座』の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子等が歌唱した。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。ヨナ抜き音階のような伝統的な日本の音楽表現や、リード形式の西洋音楽の手法を取入れている。なお、ヨナ抜き音階とは、「ド・レ・ミ・ソ・ラ」のことで、『ドレミファソラシド』の、4番目の「ファ」と7番目の「シ」を抜き、「4番目と7番目抜き」で構成されてるので、ヨナ抜き音階と呼ばれる。歌詞は5番まであり、曲の途中で民謡の囃子言葉のように「ララ」と扱って、曲全体を引締めている。舞台『復活』の公演は、4年間で上演回数が440回を越える人気となったが、この背景には、当時世界中で注目を集めていたレフ・トルストイの思想を目にしようという目的の学生達や、新しく変わった大正時代を肌で感じようとした大衆の心理があったとされる。『カチューシャの唄』の流行には、楽譜や演歌師(演歌を歌うことを職業とした芸人で、元々は、主に大道を流し歩いて歌の歌詞を書き付けた歌本を販売するのが一般的であった)による歌本も大いに貢献した。楽譜や歌本は、レコードよりも安価であったことも人気の一因となった。歌詞は、数々の新聞で五線譜(主に西洋音楽で最も広く用いられている楽譜で、5本で1組の線からなる五線が、上から下に数段書かれている用紙「五線紙」に、音符や音楽記号を書いて楽譜とするもの)と共に発表された。『復活』の上演当日に、劇場の廊下に歌詞を大きく書いた紙を貼出すと、それをメモしようと客が群がり、合唱となったエピソードもある。作曲者である中山晋平の名は日本中に知れ渡ることとなり、大作曲家としての地位を得た。中山晋平の生誕地にある長野県中野市の中山晋平記念館には、『カチューシャの唄』の歌碑がある。大正初期には既に、京都にレコード会社があった。1912(大正元)年に設立された東洋蓄音器がそのレコード会社で、ラクダ印レーベルのオリエントレコードと呼ばれた。東洋蓄音器は、『復活』の劇中歌である『カチューシャの唄』を、1915(大正4)年に『復活唱歌』の題名で、松井須磨子の歌唱でレコードとして発売した。蓄音機(レコードプレーヤー)自体が高価で普及率が低く、数千枚売れれば大当たりと言われたこの当時に、2万枚以上を売上げたという説もあり、『カチューシャの唄』は、日本初のヒット曲であった、とも言われる。当時は吹込みによる印税契約の制度がなかったが、『芸術座』は完成したレコードをさらなるヒットに生かした。島村抱月は、各公演先で初日の前に文学講演会を行ない、自らの演劇論を主張する一方でレコードを流し、観客の心を掴んだ。さらに、この楽曲の大流行を目にした島村抱月が、『芸術座』の舞台において劇中歌の挿入を決めたことにより、後に公演するイワン・ツルゲーネフ(19世紀ロシア文学を代表する文豪の1人)原作の舞台『その前夜』の挿入歌として、『ゴンドラの唄』を製作するに至った。『ゴンドラの唄』は、『カチューシャの唄』を手掛けた中山晋平により作曲され、『カチューシャの唄』同様に大衆の支持を得た。その後、『ゴンドラの唄』は、『カチューシャの唄』と並んで100年以上に亘って歌い継がれる曲となった。
サク山チョコ次郎の日。
茨城県筑西市野殿に本社と工場を置く、チョコレート、ビスケット等の菓子の製造販売を手掛ける企業、株式会社正栄デリシィが制定。「一緒ならもっと楽しい。もっとおいしい」をテーマに、サクサクビスケットとミルクチョコレート、ミルククリームを組合わせた一口チョコビスケット「サク山チョコ次郎」。コミュニケーションチョコビスケットの「サク山チョコ次郎」の美味しさ、魅力を楽しんでもらうことが目的。日付は、3月26日の「3」と「26」で、「サ(3)ク山チョコ次郎(26)」の語呂合わせから。東京都台東区秋葉原に本社を置く総合食品商社、正栄食品工業株式会社の菓子部門が2002(平成14)年に独立し、2007(平成19)年には、現社名の株式会社正栄デリシィとなった。ただ、今も株式会社正栄デリシィは、正栄食品工業株式会社が100%の株式を保有する、正栄食品工業株式会社の完全子会社である。
食品サンプルの日。
大阪市東住吉区西今川に本社を置く、全国の飲食店の店頭を飾る食品サンプルのパイオニアとして知られる企業、いわさきグループの株式会社いわさき、株式会社岩崎、岩崎模型製造株式会社の各社が制定。日付は、3月26日の「3」と「26」で、「サン(3)プ(2)ル(6)」と読む語呂合わせから。日本独自の文化である食品サンプルの販促効果や見た目の楽しさ、思わず注文したくなるその魅力等を、より多く人に知ってもらい、将来に亘るさらなる普及と発展が目的。食品サンプルは、飲食店の店頭、或いは、店内に陳列される料理の模型で、蝋や合成樹脂を主原料として作られる。大正時代から昭和初期にかけての日本で考案された表現手法である。料理模型や食品模型と呼ばれる場合もある。主に業務用として制作されていたが、近年は一般向けにも販売され始めており、模型やアクセサリー等として拡がり始めている。初期の食品サンプルは、実物を寒天で型取りして、蝋を流し込んで作成された。蝋は、予め絵の具を溶かして色付けしたものが用いられ、製品補強を行なうため、脱脂綿による裏打ちを行なった後、表面によりリアルな彩色を施す。こうした一連の作業は手作業で、実際に飲食店で提供される特徴(皿、盛り付け、量等)に近い、個々の食品サンプルの製作が行なわれた。1970年代頃に入ると、原材料は溶け易く壊れ易いといった欠点を持つ蝋製から合成樹脂へと代わり、生産の簡略化を目的とした合成樹脂用の金型等が開発され、より緻密でリアルな食品サンプルが製作されるようになった。有名な食品サンプルとして、食品サンプル職人の竹内繁春が1972(昭和47)年に編み出した、宙に浮くスパゲティとフォークがある。当初、飲食店の反応は芳しくなかったものの、客からは好評を博し、このサンプルを使用した飲食店の売上げ増に大きく貢献した。
犀星忌。
詩人で、第二次世界大戦後は作家としてその地位を確立し、多くの作品を生んだ室生犀星の1962(昭和37)年の忌日。室生犀星は、不遇な少年時代から試作に耽り、抒情詩(作者の思いや感情を表わす詩)の詩人として名声を得た。詩集の『愛の詩集』や、短編小説の『幼年時代』『あにいもうと』等の作品を残している。犀星という筆名は、当時石川県金沢市で活動をしていた、新聞記者・官僚・漢詩人の国府犀東(本名は国府種徳で、犀東の号は、金沢西部を流れる犀川[石川県金沢市を流れ日本海に注ぐ二級河川]の東畔に生まれたことに由来する)に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことから、とされる。詩集『抒情小曲集 第2詩集』の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名で、この句の通り、文壇に盛名を得た以後も、故郷の金沢には殆ど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていたという。 
誓子忌。
俳人、山口誓子の1994(平成6)年の忌日。俳誌『ホトトギス』を主宰し、伝統的な季題や定型を守る立場を取った俳人、高浜虚子に師事した山口誓子は、後に『ホトトギス』を離脱し、従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試み等により、新興俳句運動の指導的存在の1人となる。第二次世界大戦後は、俳誌『天狼』を主宰し、現代俳句を牽引した。