3月24日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1185年 - 治承・寿永の乱: 志度合戦。讃岐国屋島(現在の香川県高松市の東北部に所在)に布陣する平家軍を、源氏軍が急襲して撃破した屋島の戦いの後、平家軍は本陣であった屋島を捨てて海上に逃れ、讃岐国志度(現在の香川県さぬき市志度に所在し、屋島の南東に当たる)の志度寺に引籠もる。源氏軍の源義経が小勢で追撃し、さらに源氏軍の後続が進撃して、平家軍は海上へ逃れる。四国を追われ、陸は源氏軍の源範頼に押さえられているため、九州へ渡ることもできず、平家軍は海上に孤立し、瀬戸内海を転々としながら、彦島(現在の山口県下関市の南端にある島)へ退く。 
1336年 - 現在の大阪府箕面市と大阪府池田市の境界に位置する「瀬川の河原」(豊島河原)で行なわれた、新田義貞と北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と、足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い、豊島河原合戦に敗れ、足利尊氏が九州に落延びる。 
1603年 - イングランド女王エリザベス1世の死去に伴ない、スコットランド王ジェームズ1世が、イングランド王としても即位し、スコットランドとイングランドが同君連合となる。 
1603年 - 徳川家康が征夷大将軍に就任する。 
1860年 - 桜田門外の変が発生する。 
1869年 - 江戸幕府の貨幣鋳造所であった、金貨の鋳造や鑑定、検印を行なった金座と、貨幣の鋳造と銀地金(銀の金属塊)の買売を担った銀座が廃止される。金座は、現在の東京都中央区日本橋本石町に所在しており、金座跡地には、日本国の中央銀行(国家や一定の地域の金融機構の中核となる機関)である日本銀行が所在しており、日本橋本石町は古今を通じて、日本の金融を代表する町として知られている。銀座は、徳川家により特許された御用達町人による組織で、江戸幕府成立後に整備された新両替町(現在の東京都中央区銀座に当たる)に、銀座役所が設けられる。銀を特権的に扱う銀座は、相当な利益があり、銀座役人の不正事件が多発したことから、銀座そのものは、1800年に蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋人形町1丁目付近)に移転させられるが、呼び名としての銀座は、当地の通称としてそのまま残っている。日本有数の繁華街となった銀座は、東京を代表する高級商店街として、日本国外においても、第二次世界大戦前より、フジヤマ、ゲイシャ、ミキモト(真珠の販売で世界一のシェアを持っている企業)、等と共に知られる。「銀座」の名は一種のブランドになっており、全国各地の商店街には、「○○銀座」と呼ばれる所が各地に見受けられる。銀座の街路網は、北東から南西に向かう中央通りを中軸として設計されており、大阪、京都、名古屋、札幌のように、東西南北の方位を基準とした構造を有していないばかりか、銀座における中央通りの軸線は、京橋、日本橋、神田における軸線と異なる方向を向いている。これは、徳川家康による当初の都市計画の際、江戸前島以来の微高地の尾根筋沿いに、地形に沿った主軸線として通町筋(現在の中央通り)を設定し、そこから両側に向かう道路を設けることにより、効率的な排水の便を図ったものと言われる。近代になってからの都市計画に基づき、さらに整備が加えられている。1923年の大正関東地震(関東大震災)後、医師・官僚・政治家・都市計画家の後藤新平による震災復興の都市計画における目玉として、中央通りの東側に、新たな北東-南西軸(東京全体の南北軸の一部)として昭和通りが設けられる。また、数寄屋橋から銀座四丁目交差点、歌舞伎座前を経て勝どき橋方面へ至る、北西-南東方向の主要な直交街路として、晴海通りが大通りとして整備され、銀座街区の西側には、外堀通りが整備されている。このような整備にも関わらず、銀座内部の街路は昔ながらのものであり、通りから通りへと抜ける路地が多く点在し、銀座らしい空間を醸し出している。  
1882年 - フランスの生化学者・細菌学者、ルイ・パスツールと共に、「近代細菌学の開祖」とされるドイツの細菌学者、ロベルト・コッホが結核菌の発見を学会で報告。 
1891年 - 「度量衡法(明治24年3月24日法律第3号)」が公布される。施行は、1893年1月1日となる。 
1895年 - 李鴻章狙撃事件。清国(中国清朝)の政治家で欽差大臣(全権大使)、李鴻章が、第3回日清講和会議の帰途に狙撃され、重傷を負う。 
1914年 - シーメンス事件による国政の混乱の責任を負い、第一次山本権兵衛内閣が総辞職する。なお、シーメンス事件とは、ドイツの多国籍企業、シーメンス社による日本海軍高官への贈賄事件である。イギリスの重工業メーカー(製鉄・造船・航空機製造等)、ヴィッカース社への巡洋戦艦『金剛』発注に纏わる贈賄も絡んで、当時の政界を巻込む一大疑獄事件に発展する。 
1925年 - 京王電気軌道(現在の京王電鉄の前身)の京王線(新宿駅 - 京王八王子駅間)が全線開業する。東京都新宿区の新宿駅から、東京都調布市の調布駅、東京都八王子市の北野駅を経由して、同じく東京都八王子市の京王八王子駅までを結ぶ京王電鉄の鉄道路線、京王線(路線距離37.9km)は、国道20号(甲州街道)や首都高速4号新宿線、中央自動車道、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線と並行している。府中駅以東は国道20号にほぼ沿っており、聖蹟桜ヶ丘駅以西では、川崎街道、北野街道に沿いながら浅川を遡っている。建設時の経緯から、府中駅を境にして長い直線区間が少なくなる。1910年に設立された京王電気軌道が1913年、笹塚駅 - 調布駅間を開通させ、その後、小刻みに延長を繰返し、新宿追分駅 - 府中駅間を1916年に全通させる。当初、新宿駅 - 笹塚駅、調布駅 - 府中駅 - 国分寺駅はバス連絡を行なっており、これが東京で最初のバス営業となる。東京側のターミナルとして、1915年に新宿追分駅として開業した京王新宿駅は、完成したばかりの京王新宿ビルディングの1階に、5面3線の駅として開設され、1930年に四谷新宿駅と改称され、1937年には京王新宿駅となる。1945年、現在の京王線新宿駅の場所に移転し、廃止されている。府中駅 - 東八王子駅(現:京王八王子駅)間は、関連会社の玉南電気鉄道により1925年に開業するが、同区間は国から補助金を得るため、「軌道法(大正10年4月14日法律第76号)」に基づく「軌道」(道路に敷設される鉄道)ではなく、地方公共団体、又は私人が公衆の用に供するために敷設する地方鉄道の敷設・運営について規定していた法律「地方鉄道法(大正8年4月9日法律第52号)」に基づく「地方鉄道」として、軌間1,067mmで建設される。そのため、京王電気軌道と玉南電気軌道とは直通運転できない事態となる。玉南電気軌道は結局、国鉄(日本国有鉄道、現在の東日本旅客鉄道[JR東日本])中央本線との競合を理由に補助金を得られず、1926年に京王電気軌道は玉南電気軌道を合併し、改めて軌道特許を取得して、同区間を軌間1,372mmに変更し、新宿追分駅 - 東八王子駅間の直通運転が開始されたのは、1928年のことである。京王線は、古代からある町を通り、沿線には一定の交通需要があったが、競合する国鉄中央本線(国電中央線快速区間)や関東の他の大手民鉄と比較すると、輸送力の増強は遅れている。しかし、第二次世界大戦後に東京都の西側となる多摩地域では人口が急増し、京王グループ自体も、京王不動産による住宅開発を含めて行なったことで、京王線の乗車人員は激増する。京王線は、輸送力強化が図られ、1970年に全線複線化を行なった後も、1972年度から毎時30本の運転(2015年度から、実態に合わせて毎時27本に減便している)を行なう等の列車の増発や、長編成化(1995年度から全列車が10両編成になっている)を実現するための設備投資を続け、輸送力の増強を進めている。  
1927年 - 北伐: 蒋介石率いる国民革命軍が南京(中国大陸東部に所在)に入城するも、軍の一部が暴徒化し外国人を襲撃する。これに対し、列強の駐留軍が城内に砲撃し、多数の死傷者を出す(南京事件)。 
1933年 - ドイツ議会で、アドルフ・ヒトラー首相が率いる政府に、ヴァイマル憲法に拘束されない無制限の立法権を授権した、全権委任法が可決される。 
1934年 - アメリカ合衆国の議会で、10年後の7月4日に、東南アジアに位置するフィリピンを独立させる、とするフィリピン独立法が可決される。