3月24日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

マネキン記念日。
1928(昭和3)年3月24日、高島屋呉服店(現在の大手百貨店、髙島屋で、1930[昭和5]年に現社名へ変更している))が、現在の東京都台東区にある上野恩賜公園(通称:上野公園)で開かれた「大礼記念国産振興東京博覧会」(第124代天皇、昭和天皇の即位を祝うために開催されたもので、期間は3月24日から5月22日であり、その約2ヶ月間の入場者数は約223万であった)で、初めて「マネキンガール」を登場させたことを記念したもの。当時は人形ではなく、生身の人間であった。モデル兼販売員として、女性に服を着せて見せたことから、人気を集めたと言われている。なお、高島屋は、日本におけるショーウィンドウを早くから導入した百貨店でもあり、1969(昭和44)年には、初の郊外店となる玉川高島屋SC(東京都世田谷区二子玉川に所在)を日本初の「本格的アメリカ型のショッピングセンター」として成功させ、その後の百貨店経営のモデルを打立てたことでも知られている。「マネキン」は、フランス語で「モデル」を意味する「マヌカン」の英語読みに由来する。フランス語の「マヌカン」では「客を招かない」ということで、化粧品会社が、客を招く「招き猫」とかけて造語した。そのため、「マネキン」は、ファッションモデルや店頭において、商品の宣伝・販売促進に当たる販売員のことを意味するが、単に「マネキン」と言った場合は、衣服の展示に使われる等身大の人形「マネキン人形」を指すことも多い。日本における「マネキン」の語は、マネキン人形を指すために用いられたのが早く、1925(大正14)年3月には、初のマネキン人形専業メーカー「島津マネキン」(京都市中京区に本社を置く、計測機器、医療機器メーカー、島津製作所による)が創業している。全盛期の1937(昭和12)年には、全国生産の約85%以上を占める独占企業となっていた「島津マネキン」は、その後、戦時色が濃くなり「マネキンはぜいたく品」との声が上がる等して、1943(昭和18)年、戦火拡大の中で休止を余儀なくされた。まだ着物中心であった時期には、菊人形や見世物人形に着せて展示していた。昭和初期には、和紙の一種である楮紙(こうぞがみ、クワ科に属する落葉低木、コウゾを原料とする紙)製のマネキンが開発され、安価な供給が可能となり、高価な輸入物に代わり、国産マネキンが普及していった。第二次世界大戦後の1950年代から、新素材の繊維強化プラスチック(FRP)製のマネキン人形が造られ、その量産化に拍車を掛ける。丈夫で軽量な素材は世界中に広まり、現在も使用されている。従来は、若者をモデルとしたマネキン人形のみが制作される傾向にあったが、昨今では、高齢社会の到来を受けて、60歳代から70歳代の平均体型をマネキン人形化したものも制作されている。ヨーロッパの会員制婦人服のブティックにおいては、産油国等の富裕層向けに、社員として、自社ブランドのモデルを雇用している。彼女達は「ハウスマヌカン」(これは、英語由来のハウスと、フランス語由来のマヌカンを組合わせた造語)と呼ばれており、英仏では定着した呼称である。日本には、これがやや歪曲して伝わって、低価格の婦人服のブティックの店員を全て「ハウスマヌカン」と呼んでいた時期があったが、当然、英仏では通じない。因みに、有料職業紹介事業所の一形態として、店頭販売員の職業紹介に特化した「マネキン紹介事業(マネキン紹介所)」があり、「正式な職種名」として、事業所や業界団体の名称として使われている。「マネキン紹介所」から斡旋を受け、スーパーマーケットやデパ地下(百貨店[デパート]の地下階にある食料品売り場を指す通称)等で、試食販売や実演販売に従事する販売員のこともマネキンと呼ぶ。 
ホスピタリティ・デー。
1994(平成6)年に日本ホスピタリティ研究会(日本ホスピタリティ協会を経て、現在は、東京都港区六本木に事務局を置く、特定非営利活動法人[NPO]日本ホスピタリティ推進協会となっている)が制定したもの。数理学的に「3」は、新しいものを創り出すエネルギー・創造・自己表現等、「2」は、調和とバランス・思いやり・協力・理解力・人間関係を象徴し、「4」は、全体を創り上げる基礎を表わす数とされ、3月24日の「3・2・4」は、ホスピタリティに関連性の高い要素が多く含まれていることから。「ホスピタリティ」とは、「思いやり」「心からのおもてなし」という意味である。サービス業のみならず、最近では、医療現場等でも頻繁に、「ホスピタリティ」という言葉が使われるようになっている。形や行動等で示す「マナー」は、相手に不快感を与えないための最低限のルールであるが、そこに「心」が加わると、「ホスピタリティ」になる。「サービス」の語源は、ラテン語の「Servus(奴隷)」であり、英語の「Slane(奴隷)」「Servant(召使い)」という言葉から発展した。「サービス」は語源の通り、「サービス」を受ける立場が主であって、「サービス」を提供する方は従ということで、主従関係がはっきりしていると言える。一方で、「ホスピタリティ」の語源は、ラテン語の「Hospics(客人等の保護)」であり、それが英語の「Hospital(病院)」等と、色々な言葉に発展した。これらは対価を求めているのではなく、「おもてなし」や喜びを与えることに重きをおいている点が大きくサービスと違う。「ホスピタリティ」において重視されるのは、人間性や信条、個性、感性等であり、目先の報酬を求めての行動ではなく、「おもてなし」や喜びを与えることを通じて、報酬は結果として付いてくるという考えである。
恩師の日(「仰げば尊し」の日)。
学校時代の先生はもちろん、人生の中で師と仰ぎ「恩師」と呼べる人に、1884(明治17)年に発表された唱歌『仰げば尊し』(卒業生が教師に感謝し、学校生活を振返る内容の歌)の歌詞のような感謝の気持ちを込めて、お礼の手紙を書く日にと、制定されたもの。恩師への感謝の思いを忘れることなく生きて行こう、との願いが込められている。日付は、この頃に卒業式が、各学校等で行なわれることから。『仰げば尊し』は、卒業生が教師に感謝し、学校生活を振返る内容の歌で、特に、明治から昭和にかけては、学校の卒業式で広く歌われ親しまれてきた。ニ長調、又は変ホ長調が多い。8分の6拍子で、編曲されたものが何種類か存在する。 2007(平成19)年には、「日本の歌百選」の1曲に選ばれている。現在でも、中年以上の世代を中心として、日本人の多くの記憶に残る歌である。その知名度故に、映画やドラマにおいても度々用いられており、映画『二十四の瞳』(高峰秀子主演、1954[昭和29]年公開)に見られるように、作品の中でも重要な役割を果たすこともある。しかし、平成時代に入ってからは、大都市の公立学校(特に、小学校)を中心に、卒業式の合唱曲を『仰げば尊し』から、1991(平成3)年に埼玉県秩父市立影森中学校の教員によって作られた合唱曲『旅立ちの日に』や、1979(昭和54)年に発売されたフォークグループ、海援隊のシングル曲『贈る言葉』、2003(平成15)年に発売されたシンガーソングライター、森山直太朗のシングル曲『さくら』等といった、その時々の流行曲に変更する学校が多くなっている。『仰げば尊し』の使用が減った理由としては、歌詞が「いと」「やよ」のような古語を多く含む文語調であるため、児童・生徒には分かりにくい、ということが指摘されている。『仰げば尊し』を巡っては、研究者の間でも、長い間作者不詳の謎の曲とされてきた。原曲を載せた歌集は、日本の図書館等では見付かっていないが、アメリカやイギリスの図書館で、少数ながら所在が判明している。日本には、文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)の音楽教育機関、音楽取調掛(学校における音楽教育の研究のため、1879[明治12]年に設立され、1887[明治20]年には、東京音楽学校[後の東京芸術大学音楽学部]に発展的解消した)の伊沢修二(近代日本の音楽教育の第一人者とされる教育運動家)らが移植した。日本語の歌詞は、国語学者の大槻文彦、音楽教育者の里見義と加部厳夫の合議によって作られたと言われている。