3月22日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

法隆寺会式(聖徳太子のお会式)(続き)。
1878(明治11)年に法隆寺は、300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金1万円を下賜された(明治時代初期の頃は、1万円が約1億円に相当した、とも言われる)。これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次世界大戦後は大部分が東京国立博物館(現在の東京都台東区にある、日本と東洋の文化財[美術品、考古遺物等]の収集保管、展示公開、調査研究、普及等を目的とした、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館で、日本最古の博物館である)の所蔵となり、その中の極一部が、皇室御物(皇室の私有品になっている絵画、書跡、刀剣等)、及び宮内庁保管となっている。「法隆寺献納宝物」は、シルクロード(中国と地中海世界の間の歴史的な交易路)の終着駅と言われ、古文書を始め、 服飾品、調度品、楽器等、8千点を越える宝物を収蔵している東大寺正倉院(奈良市の東大寺大仏殿の北北西に所在)の宝物よりも一時代古い、飛鳥時代から奈良時代前期を中心とする工芸品、仏像等を多数含み、歴史的・文化的に価値が高い。「法隆寺献納宝物」の所蔵者である東京国立博物館では、1964(昭和39)年、構内に「法隆寺宝物館」を開設し、献納宝物を展示・保管・研究している。
放送記念日。
1925(大正14)年3月22日、東京府東京市芝区芝浦(現在の東京都港区芝浦)にある東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部の前身)内に設けられた社団法人東京放送局(JOAK、現在のNHK[日本放送協会]東京ラジオ第1放送)仮送信所から、日本初のラジオ仮放送が行なわれたことを記念して、日本放送協会(NHK)が1943(昭和18)年に制定した日。仮放送当日の第1声は、「アー、アー、アー聞こえますか」であった。当時使われていたラジオは、鉱石の整流作用を利用したAMラジオ受信機「探り式鉱石受信機」が殆どで、第1声の「アー、アー、アー」は、この間に聴取者が、鉱石の針先を一番感度の良い部分に調節できるようにするための配慮と言われている。波長は375m(周波数800kHz)、空中線電力(出力)約220Wで、当時の受信機の性能に比して出力が弱かったため、東京市(現在の東京都区部[東京23区]に相当)内でないとよく聴こえなかった。日本放送協会(NHK)ではこの日(祝休日と重なる場合は、最直前の平日)に、東京都渋谷区の多目的ホール『NHKホール』で「放送文化賞」として、日本の放送界に貢献した著名人に対する表彰を行なっている。なお、社団法人大阪放送局(JOBK、現在のNHK[日本放送協会]大阪放送局)は、社団法人東京放送局と同時期に設立準備中であったが、1925(大正14)年6月1日に仮放送を出力500Wで開始した。さらに、社団法人名古屋放送局(JOCK:現在のNHK[日本放送協会]名古屋放送局)も同年7月15日に、出力1kWで放送を開始した。社団法人東京・大阪・名古屋放送局は、翌年の1926(大正15)年に社団法人日本放送協会として統合された。これは実質的には、政府機関的な性格を持っていた。「全国鉱石化」(日本全国のどこでも鉱石受信機によるラジオ聴取を可能とするインフラの整備)を目標に、日本各地に放送局を開設した他、当時日本領であったオホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島の南半分、南樺太(豊原放送局)や、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々南洋群島(パラオ放送局)にも置局した。さらに、朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会が設立され、社団法人日本放送協会の番組を多く中継した。受信機としては、交流商用電源や大容量電池によって作動する真空管を使ったものが登場し、鉱石式のイヤホンに代わって、スピーカーで大きな音量の放送が聞けるようになる。ラジオ受信機自体は、国内メーカーによって生産が可能となっており、アマチュアによる受信機自作も、当時から趣味の一ジャンルとして広まり始めていた。やがて、ラジオ受信機の普及が進み、音楽、演芸、スポーツ中継、ラジオドラマ等の多彩なプログラムが提供されるようになったことで、娯楽の主役となったが、1941(昭和16)年の第二次世界大戦の対英米戦開戦と、その後の戦局の進行と共に、日本軍の最高統帥機関である大本営の陸軍部、及び海軍部が行なった、戦況等に関する公式発表、大本営発表を行なうための機関と化し、プロパガンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った、宣伝行為)的な番組が増えた。この傾向は、第二次世界大戦終戦まで続いた。1945(昭和20)年8月15日に「戦争終結の詔書(いわゆる玉音放送)」が放送され、第二次世界大戦後の日本は、海外領土を失う。社団法人日本放送協会は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理・監督下に置かれ、言論統制が行なわれた。アメリカ軍とイギリス軍を中心とした(中華民国軍、及びソビエト連邦軍は日本に進駐していない)、いわゆる進駐軍向け放送局が主要都市に置かれた。アメリカ軍向けは、後に極東放送網(FEN)、現在の米軍放送網(AFN)の前身となった。一部の局については、社団法人日本放送協会から施設や役務の提供が行なわれた。1950(昭和25)年に社団法人日本放送協会が公共企業体としての特殊法人日本放送協会に改組され、翌1951(昭和26)年には、9月1日朝に中部日本放送(現:CBCラジオ)、同日昼に新日本放送(現:毎日放送[MBS])が、同年12月25日にはラジオ東京(現:TBSラジオ)と、民間放送も相次いで開始された。1953(昭和28)年にはテレビ放送も開始されたが、白米10kg680円、銭湯の入浴料15円程度であった時代に、テレビ受像機の価格は20万円から30万円程度と高価で一般には買えず、ラジオが一家の主役であり続けた。ラジオ受信機にしても、当時は物品税(「物品税法[ 昭和15年3月29日法律第40号]」に基づく物品別間接税で、1989[平成元]年4月1日の「消費税法[昭和63年12月30日法律第108号]」施行に伴なって廃止された)が高価で、メーカー製完成品を購入するよりは、秋葉原(世界有数の電気街として発展した、東京都千代田区の秋葉原駅周辺の地域)等から真空管(整流、発振、変調、検波、増幅等を行なうために用いる電気、電子回路用の能動素子)等の部品を買い集めて自作した方が安かったために、受信機を製作する人が多かった。彼らは「少年技師(後のラジオ少年)」とも呼ばれ、高度成長期の日本のエレクトロニクス産業の発展の基礎を作る要因の1つともなった。しかし、当時の第124代天皇、昭和天皇の第一皇男子で皇太子の明仁親王(後の第125代天皇、天皇明仁、現在の上皇明仁)が、1959(昭和34)年に製粉業界最大手の製粉会社、日清製粉グループの経営者、正田英三郎の長女である正田美智子(現在の上皇后美智子)と結婚し、パレードのテレビ中継が行なわれたのをきっかけに、テレビ受像機が普及し始めたこと等から、ラジオは斜陽化の時代を迎える。1960年代になると、部品のトランジスタ(増幅、又はスイッチ動作をさせる半導体[電気電導性の良い金属等の導体、良導体と電気抵抗率の大きい絶縁体の中間的な抵抗率を持つ物質])の普及が進み、これを使ったトランジスタラジオの商品化や、さらに、モータリゼーション(自動車が社会と大衆に広く普及し、生活必需品化する現象)により、カーラジオが普及する等、ラジオは一家に1台から、1人に1台というパーソナル化の方向へ向かう。ラジオ放送は、家族をターゲットにした編成から、個人をターゲットにした編成へと転換していく。情報トーク番組や音楽番組が増えた他、ターゲットを絞った深夜放送も盛んになった。