3月21日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1187年 - 鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で、源頼朝と対立した源義経が、東北地方一帯に勢力を張った豪族、奥州藤原氏の当主である藤原秀衡の庇護下に入る。 
1413年 - 前日のイングランド国王ヘンリー4世の死去に伴ない、ヘンリー5世がイングランド国王に即位する。 
1566年 - イングランドの宗教改革指導者トマス・クランマーが、女王メアリー1世の命により火刑に処せられる。 
1591年 - 葛西大崎一揆を扇動した嫌疑で、伊達政宗が上洛して喚問を受ける。葛西大崎一揆は、豊臣秀吉の奥州仕置(この「仕置」とは、領主権力における所務[徴税]を除く所領統治全般を指す)により改易された、陸奥国中部(宮城県北部から岩手県南部)の戦国大名、葛西氏や大崎氏らの旧臣による、新領主の木村吉清、木村清久父子に対する反乱である。葛西氏当主の葛西晴信、大崎氏当主の大崎義隆の両名は、小田原に参陣しなかったことを理由に、豊臣秀吉に領地を没収され、その旧領13郡約30万石には、奥州仕置で敵軍を撃破する等の戦功により、知行5千石であった木村吉清が封じられる。木村吉清は領国経営を開始したが、その統治手法は、旧葛西・大崎家臣団らの強い反発を買うもので、発生した一揆は、領内全土へと拡大する。奥州仕置で実行役として中心的役割を担った豊臣政権の五奉行筆頭、浅野長政(なお、「長政」は晩年の改名で、「初名」の長吉を名乗っていた時期が長く、「長政」に改名するのは、豊臣秀吉の死後である)は、帰京の途にあったが引返し、奥州仕置において、陸奥国会津に移封されて42万石を領した蒲生氏郷と、本領72万石を安堵されていた伊達政宗に、木村吉清、木村清久父子の救出を命じる。しかし、一揆を扇動したのは伊達政宗、との報告を受けた蒲生氏郷は、一揆、及び伊達政宗に備えると共に、豊臣秀吉に使者を遣わして情勢を報告し、蒲生氏郷からの報告を受けた豊臣秀吉は、吏僚としての功績が大きい、腹心の石田三成を派遣して対策を命じる。伊達政宗は、木村吉清、木村清久父子を救出し、両名を蒲生氏郷の許へ送り届けたが、その後も蒲生氏郷は、伊達政宗への備えを解かず、帰路の安全確保のため、伊達政宗に人質を要求する。石田三成は、伊達政宗に対して豊臣秀吉からの上洛命令を伝え、蒲生氏郷と木村吉清、木村清久親子らを伴なって帰京する。上洛した伊達政宗に対する査問が行なわれると、伊達政宗は、一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、本物の自分の書状は、花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張する。豊臣秀吉はこの主張を認め、伊達政宗に改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として、小田原征伐時の副将であった養子の豊臣秀次や、徳川家康にも出陣を命じる。伊達政宗は一揆勢の烈しい抵抗に遭ったが、約10ヶ月後に一揆を終息させる。木村吉清は、一揆発生の責任を問われて改易となり、その領国となっていた葛西・大崎13郡は、伊達政宗に与えられることになる。
1801年 - エジプト・シリア戦役: アレクサンドリアの戦い。 
1804年 - フランスの私法の一般法を定めた法典で、近代市民社会の法の規範となったフランス民法典(ナポレオン法典)が発布される。 
1854年 - 東海道筋や神奈川宿・神奈川湊から離れ、80軒程の漁師小屋が建ち並ぶ半農半漁の寒村であった横浜村(現在の神奈川県横浜市)のペリー応接所(横浜応接所)の庭で、日本で初めて模型の機関車が運転される。 
1871年 - オットー・フォン・ビスマルクがドイツ帝国の初代帝国宰相(首相)に就任。プロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけての地域を領土とした王国)首相で、プロイセン王家が帝位に就くドイツ帝国を成立させたオットー・フォン・ビスマルクは、卓越した外交力で、国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに、「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築する。ドイツ統一によって、ドイツ各国の市場が緊密化し、また、フランスから巨額の賠償金を獲得したことで、ドイツ資本主義は急速に発展し始め、オットー・フォン・ビスマルクは、貨幣の統一、様々な関税の引下げ、中央銀行の創設、法律と裁判制度の統一化等、数多くの自由主義化・近代化改革を推進し、また、世界に先駆けて、全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行なう。ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世は、オットー・フォン・ビスマルクとは、しばしば意見対立しながらも、崩御まで首相として重用し続けたが、ヴィルヘルム1世の孫に当たり、父のフリードリヒ3世もヴィルヘルム1世に続いて崩御したことにより、ドイツ帝国の第3代皇帝となったヴィルヘルム2世は、オットー・フォン・ビスマルクと激しく対立し、1890年に首相を辞職させて、親政を開始している。
1874年 - 現在の東京都中央区築地にあった海軍兵学寮(1876年に改称されて海軍兵学校となり、1888年には呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町[現在の江田島市]に移転する)で、日本初の運動会「競闘遊技会」が開催される。日本で最初に行なわれた運動会はこれが定説とされるが、1868年に江戸幕府の横須賀製鉄所(後に横須賀造船所から横須賀海軍工廠となる)で、技術者や職工らによって行なわれたものが最初、とする説もある。 
1907年 - 「小学校令(第三次、明治33年8月20日勅令第344号)」が「小学校令中改正ノ件(明治40年3月21日勅令第52号)」により改正されて、義務教育が6年間となる。「小学校令」は、近代日本の初等教育制度について定めた勅令である。「小学校令(第一次、明治19年4月10日勅令第14号)」、「小学校令(第二次、明治23年10月7日勅令第215号)」を経て、第三次の「小学校令」となるが、1941年に「国民学校令(昭和16年3月1日勅令第148号)」に改題の上、全部改正される。その後1947年には、「学校教育法(昭和22年3月31日法律第26号)」の公布・施行に伴ない廃止となる。 
1912年 - 洲崎遊郭(現在の東京都江東区東陽に所在した公娼街)で大規模な火災が発生し、1,419戸が焼失する。
1918年 - 第一次世界大戦: ドイツ軍がパリ砲(「カイザー=ヴィルヘルム砲」とも呼ばれる、フランスの首都パリを砲撃するために製造した巨大な列車砲)による攻撃を開始する。空気の薄い上空にまで砲弾を打上げると、空気抵抗の影響を受けにくい理由により、射程が驚異的に伸びることに着目して開発された初期のスーパーガン(超巨大砲)、パリ砲は、第一次世界大戦最大の巨砲で、300発以上の砲弾が発射され、250名が死亡し、620名が負傷、家屋等にも相当の被害が出る。 
1919年 - 中央ヨーロッパに位置する現在のハンガリーに、ハンガリー社会主義連邦評議会共和国が樹立される。ハンガリーにおける共産主義体制国家であったが、僅か約4ヶ月余りしか存続せず、8月6日に崩壊している。 
1921年 - 戦時共産主義による国民の疲弊を救うため、ロシアが新経済政策(ネップ)を施行。食料税の導入と税納付後の残余農産物を市場で自由に売買できること(市場原理の部分的導入)が特徴であるが、結果としてネップマンと呼ばれる私的商人・私的実業家の出現を許し、社会主義体制との矛盾が生じることとなる。 
1934年 - 函館大火。強風に見舞われた北海道函館市で、市街地の約3分の1が焼失する大火災が発生。火災の発端は、函館市の南端にあった家の屋根が強風で飛び、炉の火が巻上げられ出火したもので、その後、強風の影響も相まって市内22ヶ所に飛び火し、最終的には、死者2,166名、焼損棟数11,105棟を数える大惨事となる。 
1935年 - 西アジア・中東に位置するペルシャが、国号をイランに改称する。 
1935年 - 「吉田岩窟王事件(現在の名古屋市千種区の路上で小売商が殺された事件)」の無期徴役囚、吉田石松が23年振りに仮出獄し、再審請求を開始する。 
1940年 - 第一次世界大戦に従軍後、政治家となって、多くの閣僚を務めたポール・レノーが、フランス共和国(第三共和政)閣僚評議会議長(首相)に就任。