3月18日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

高校生パーラメンタリーディベートの日。
日本のディベート団体である一般社団法人、日本高校生パーラメンタリーディベート連盟(HPDU of Japan)が制定。「パーラメンタリー(parliamentary)」は「議会の、議会制の」、「ディベート(debate)」には、「討論会、議論」等の意味がある。「パーラメンタリーディベート(Parliamentary Debate)」とは、イギリス議会の議論を模したディベートで、与えられた論題を肯定側と否定側に分かれて、それぞれの立場を英語で立論と反論を繰返し、審判にいかに納得してもらうかを競うものである。ディベートの議題は、社会・政治・倫理・環境・国際問題等、多岐に亘る。世界では、教育現場において、このパーラメンタリーディベートが広く導入されており、その経験を活かして、多くの人々が政治家や官僚、学者等としてグローバルに活躍している。記念日の日付は、高校生を対象とした即興型のパーラメンタリーディベートの全国大会が、日本で初めて開催された2012(平成24)年3月18日から。グローバル社会に対応する人材を数多く輩出することを目指して、日本中の高校に、即興型であるパーラメンタリーディベートを普及させることが目的。一般社団法人日本高校生パーラメンタリーディベート連盟(HPDU of Japan)は、任意団体として2010(平成22)年12月に設立された。毎年3月、全国大会として「連盟杯(HPDU杯)」を開催している。「連盟杯(HPDU杯)」は、国内の即興式英語ディベート高校生大会の中で、最も権威のある大会と見做されている。
精霊の日。
日本に現存する最古の和歌集『万葉集』を代表する歌人、柿本人麻呂、和泉式部、小野小町の3人の忌日がこの日である、と古くから伝えられていることから。ただ、この3人は、共に命日がはっきりしている訳ではなく、特に死者を悼むような歌を得意とした訳でもない。春分を中心とする7日間が春の彼岸で、最初の日を「彼岸の入り」といい、3月18日前後になることから、「彼岸の入り」との関連付けがあったのかも知れない。「精霊」は「しょうりょう」と読み、死者の霊魂を意味する言葉である。この3月18日前後に、亡くなった人の霊を追悼する習わしがあったとされている。精霊は、「お盆」に迎え祀る先祖の霊魂(祖霊)であり、盆様・先祖様等の名もある。天寿を全うして普通に死んだ者の霊は、死後33年、又は50年の弔い上げを終わると、死体から分離して清らかな霊質(祖霊)となり、正月・盆・農耕儀式の折々に、子孫の許を訪れ、見守ってくれるものと考えられた。盆の期間中には、故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物として、「精霊馬(しょうりょううま)」と呼ばれる、キュウリやナスで作る、馬や牛の動物を用意することがある。また、盆の頃に飛ぶ赤とんぼを、「精霊とんぼ」ともいって、先祖様がこのとんぼに乗って帰ってくるという地方もある。一般には、盆に入る夕方に、門前で迎え火を焚いて精霊を迎える形が多く、盆の終わる日には、門前や川、海浜等で送り火を焚いて、精霊が帰るのを送る「精霊送り」が行なわれる。なお、「精霊」を「せいれい」と読む場合は、「草木、動物、人、無生物、人工物等、1つ1つに宿っている、とされる超自然的な存在」をいい、他に、「万物の根源をなしている、とされる不思議な気のこと」や「肉体から解放された自由な霊」等を意味する場合がある。さらに、日本以外の、世界各地の伝承に登場する「スピリット(spirit)」(例えば、「泉の精」や「ランプの精」等、「~の精」と訳す方がしっくりくるような場合)の訳語として、「精霊(せいれい)」が用いられることもある。和泉式部は、平安時代中期の歌人である。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人とされる。真情に溢れる作風は、恋歌・哀傷歌・釈教歌に最もよく表わされ、殊に、恋歌に情熱的な秀歌が多い。第63代天皇、冷泉天皇の第四皇子で、歌人でもあった敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』がある。和泉式部の本人自筆の作品とされることもあるものの、かつては『和泉式部物語』とも呼ばれたこともあり、また、主人公であり筆者であるはずの和泉式部本人を、「女」という三人称的呼称で扱っていることから、別に作者がいるのではないか、との意見もある。 
人麻呂忌、人丸忌、人麿忌。
飛鳥時代の歌人、柿本人麻呂の忌日。月遅れの4月第2日曜日に、兵庫県明石市に所在する柿本神社で例祭が行なわれる。柿本人麻呂は後世、奈良時代の歌人、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。また、三十六歌仙(平安時代の和歌の名人36名の総称)の1人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。日本に現存する最古の和歌集『万葉集』第一の歌人と言われ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は、枕詞(特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉)、序詞(特定の語の前に置いて、比喩や掛詞、同音語等の関係に係る言葉)、押韻(同一、又は類似の韻をもった語を一定の箇所に用いること)等を駆使して、格調高い歌風である。柿本人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような、天皇即神の表現等をもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、『記紀』(日本最古の歴史書『古事記』と、奈良時代に成立した日本に伝存する最古の正史『日本書紀』との総称)の歌謡等にも僅かながら例がない訳ではないが、柿本人麻呂の作に圧倒的に多く、この歌人こそが第一人者である。また、柿本人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期(7世紀後半頃)におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現と言える。恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていたが、近時は恋物語を詠んだもので、柿本人麻呂の実体験を歌にしたものではない、との理解が大勢である。 
小町忌。
平安時代前期の女流歌人、小野小町の忌日。但し、生没年は不詳となっている。六歌仙(鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集『新古今和歌集』の序文に記された6名の歌人)、三十六歌仙、女房三十六歌仙(鎌倉時代中期の成立と推測される歌集『女房三十六人歌合』に歌を採られた女性歌人36名)の1人とされる。絶世の美女として、七小町(小野小町を題にした七つの謡曲[能楽作品]の総称)等数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃等の題材としても使われている。しかし、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも、後姿が大半を占め、素顔が描かれていないことが多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。歌風は、その情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗(しなやかで美しいさま)・哀婉(あわれで美しく、淑やかなさま)、柔軟艶麗(柔らかく容姿が艶やかで美しいさま)である。『古今和歌集』序文において、貴族で歌人の紀貫之は小野小町の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせている、として絶賛している。第54代天皇、仁明天皇の治世の人物である在原業平(第51代天皇、平城天皇の第一皇子、阿保親王の第5子で、在原姓を賜って臣籍に下った歌人で、六歌仙・三十六歌仙の1人であり、容姿端麗で情熱的な和歌の名手であったとされ、作者不詳の歌物語『伊勢物語』の主人公ともされる)や、官人(朝廷に仕える官僚)・歌人の文屋康秀、蔵人(天皇の秘書的役割を果たした官人)で、出家して花山僧正とも呼ばれる僧侶・歌人の遍昭(俗名は、良岑宗貞)と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。『古今和歌集』には、「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」という歌があり、小野小町が美女であったことは垣間見える。この歌は、公家で、日本の代表的な歌人とされる藤原定家の撰による『小倉百人一首』にも選ばれている。小野小町の生誕地については、伝承によると、現在の秋田県湯沢市小野とされており、晩年も同地で過ごしたとする、地域の言い伝えが残っている。但し、小野小町の真の生誕地が、秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県田村郡小野町とする説、熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説等、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。晩年の小野小町は秋田県湯沢市小野で過ごした、という説の他、京都市山科区小野は、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族、小野氏の栄えた土地とされ、小野小町は晩年、この地で過ごしたとの説がある。京都市山科区小野にある真言宗善通寺派の大本山の寺院、随心院には、卒塔婆小町像や文塚等、史跡が残っていて、随心院は、小野小町ゆかりの寺としても知られる。