3月15日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

万国博デー(続き)。
太陽の塔は、この後に改修の上、2010(平成22)年の日本万国博覧会開催40周年記念事業の一環として、再公開される予定となっていた。しかし、耐震診断の結果、「建築基準法(昭和25年5月24日法律第201号)」上の耐震基準を満たしておらず、上半身や腕が特に危険という結果が出た。このため、40周年の2010(平成22)年の再公開は見送られた。大阪府は、内部公開に向けての耐震補強工事を計画し、2016(平成28)年2月18日、大阪府は、太陽の塔内部公開に向けての工事予算約17億円を計上した。その後、工事が進められ、太陽の塔内部の公開開始は、2018(平成30)年3月19日となった。大阪万博の公式なシンボルマークは、日本の国花である桜を模ったもので、デザインは、大阪を拠点に活動していたグラフィックデザイナーの大高猛である。当初は、グラフィックデザイナー・童画家、西島伊三雄デザインの、鉄アレイ状の上に丸を描いた形で、東西世界の融合等を表わしているとの説明であったが、シンボルマーク発表の記者会見の直前に、財団法人日本万国博覧会協会の会長理事で、前経済団体連合会(経団連、現在は日本経営者団体連盟[日経連]と統合され、日本経済団体連合会[日本経団連]となっている)会長の石坂泰三が「これでは日本が世界の上にあぐらをかいているようだ」と激怒し、一蹴した(その日の会見は中止)。その後、改めてデザインが行なわれ、桜をイメージしたマークとなった。「五つの花びらは五大州、即ち世界を、中央の丸は日本のシンボル日の丸を、周囲の白い部分は発展への余裕と伸びようとする意図を表わしている」と説明された。なお、日本館はこのシンボルマークを模って建設された。現在、唯一元会場内に残存している「鉄鋼館」が改修され、2010(平成22)年3月13日に万国博の資料館「EXPO'70パビリオン」としてリニューアルオープンした。元々、「鉄鋼館」は現代音楽等の音楽公演を行なうパビリオンで、最新の音響設備を備えており、40年振りに公開されるメーン施設「スペースシアターホール」は、当時の光のショーをイメージして、色彩豊かな照明で演出している。大手総合電機メーカーの松下電器産業(現:パナソニック)が出展した「松下館」で展示されたタイムカプセルは、当時の各種物品を詰め、同じものが2つ、大阪市中央区にある大阪城公園に埋められている。1つは5,000年後の6970年に開封予定であり、もう1つは、内容物の状態確認のため、2000(平成12)年以降、100年毎に開封されることになっており、2000(平成12)年に、当初の予定通り掘出して最初の開封が行なわれ、内容物は、大阪城公園内にあった大阪市立博物館(旧日本陸軍第四師団司令部庁舎を利用して1960[昭和35]年に開館したが、2001[平成13]年に閉館)で展示された。大阪万博に出展され、その後実現普及したものとしては、温水洗浄便座やエアドーム、ワイヤレスフォン(現在の携帯電話で、電卓の機能まで既に内蔵されていた)、テレビ電話(第三世代携帯電話でほぼ普及)、ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)、モノレール(アルウェーグ式を改良した日本跨座式が会場内にて初めて運用された)、電波時計等がある。さらに、ファーストフードやファーストフードチェーン、ファミリーレストラン等も、大阪万博を契機として日本に普及した。大阪万博来場者数は、1970(昭和45)年3月15日から9月13日までの会期183日間で延べ6,421万8,770名と、国際博覧会史上第2位の来場者数を記録したが、それだけの人数を捌くために、交通機関は大きな役割を果たすことになった。その開催が決定したのは、1965(昭和40)年の9月14日であり、翌10月には財団法人日本万国博覧会協会が設立され、会期までに必要な設備を整えることが定められ、その1つとして交通機関の整備も上げられた。また、都市インフラ(国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設)も、これを機に一気に整備しようと言うことになり、直接は関係しないところでも、交通機関整備や市街地再開発等が推し進められることになった。大阪市営地下鉄(現在の大阪市高速電気軌道[Osaka Metro])御堂筋線の江坂駅から先、千里ニュータウンの開発に備えて北大阪急行電鉄の建設が決まったが、大阪万博開催中は中国自動車道の敷地を一時的に借りて、万博中央口までの臨時線を造ることになり、開幕前の2月24日に南北線と臨時線である会場線(千里中央駅 - 万国博中央口駅間)の全線が開業した。大阪万博開催時には、地下鉄御堂筋線と北大阪急行電鉄の直通列車がラッシュ時並みの最小2分半間隔で運転され、梅田駅から万国博中央口駅まで25分、新大阪駅からは20分で結び、大阪近郊からの輸送はもちろん、遠方から新幹線等で来た客の輸送も担った。約2,000万名から約2,400万名をこのルートで輸送したという。これらの輸送に備えて大阪市営地下鉄は、大型車両の30系を用意し、北大阪急行電鉄も2000系・7000系・8000系(初代)を投入(7000系と8000系は、大阪万博終了後大阪市交通局に売却されて30系に編入)した。また、道路事情が悪化した場合に備えて、50系を改造した貴賓車も4両製造したが、実際には使われることは無かったという。なお、大阪市では道路混雑が悪化したこともあり、1963(昭和38)年から路面電車を全廃して、地下鉄を整備する計画を進めてきたが、大阪万博開催決定を受けて、それを前倒しすることにした。この結果、大阪市電は1969(昭和44)年に全廃され、その一方で、地下鉄網は1965(昭和40)年当時の27.0kmから、大阪万博開催時には64.2kmに急拡大することになった。京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)千里線南千里駅 - 北千里駅間には、1969(昭和44)年11月10日から1970(昭和45)年9月14日まで、臨時駅の「万国博西口駅」(南千里駅から2.2km地点)を設置して輸送に備えた。万国博西口駅は約900万名が利用したと言われ、神戸本線と宝塚本線方面から十三駅で折返して直通する臨時列車「エキスポ直通」や、団体専用列車も設定された。また、梅田駅 - 北千里駅間・大阪市営地下鉄堺筋線内 - 北千里駅間に設定された臨時準急列車「エキスポ準急」は、万国博西口駅までを30分弱で結んだ。他に、京都本線には、南茨木駅を1970(昭和45)年3月8日から臨時駅(閉幕と相前後して常設駅に変更)として新設、同駅からシャトルバスで輸送することにし、大阪万博開催中は、特急や急行も臨時停車させることにした。国鉄(日本国有鉄道、現在のJRグループ)では、これを機に東海道新幹線「ひかり」の編成を全て16両編成に増強し、「こだま」を主として臨時列車も多く設定した。大阪万博旅行の際に、初めて新幹線に乗ったという人は多いと言われ、新幹線は「万博パビリオンの1つ」と呼ばれたともいう。また、東海道本線の茨木駅を橋上駅舎化して駅前広場を整備し、会場までバス連絡とした。大阪万博開催中は、茨木駅に「万博東口駅」の副称を付けて快速列車の停車駅とし、茨木駅は大阪万博終了後に、正式な快速停車駅に格上げされた。1966(昭和41)年に名阪国道、1969(昭和44)年に西名阪自動車道、1970(昭和45)年に東名阪自動車道が供用開始し、大阪万博開催中に愛知県名古屋市と大阪市とを結ぶ自動車専用道路が整備された。さらに、1969(昭和44)年には東名高速道路も開通して、首都圏と京阪神の間も自動車専用道路で結ばれるようになった。また、名神吹田インターチェンジも、名神高速道路開通当初は構想自体なかったが、大阪万博会場への玄関口の役割を果たすインターチェンジが必要と判断され、急遽開設が決まった。空路に関しては、大阪国際空港(伊丹空港)だけでなく、東京国際空港(羽田空港)も、国内外からの臨時便、特別機を捌き切れなくなる恐れがあったことから、8月に国内定期便の減便措置が取られた他、同月には、東京国際空港(羽田空港)と秋田空港や岡山空港、八丈島空港等を結ぶ定期便の発着地が、アメリカ海軍の厚木基地(海軍厚木航空施設)に期間限定で移された。