3月11日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

コラムの日。
1751(宝暦元)年3月11日、イギリスの新聞『ロンドン・アドバイザーリテラリー・ガゼット』が、世界初のコラムの連載を始めたことから。コラムとは、新聞・報道雑誌・ニュースサイト等に掲載される、ニュース以外の記事である。つまり、個人的な分析・意見が含まれている記事で、評論やエッセイの他、人生相談コーナーや「オススメ○○」等といったものも含まれる。原義は、円柱(底面、及び上面が正円である立体図形)のことである。縦書きの日本の新聞は、横型の余白が出ることがある。しかし、横書きの英字新聞は、縦型の余白が空くことがあり、この縦型の余白が、円柱を横から見た形に似ていることから、区切られたスペースに書く短い記事が「コラム」と呼ばれるようになった。新聞のコラムの代表的なものとして、『朝日新聞』の「天声人語」、『読売新聞』の「編集手帳」、『毎日新聞』の「余録」等がある。 
パンダ発見の日(ジャイアントパンダ発見の日)。
1869(明治2)年3月11日、中国西南部にある四川省の民家で、伝道中のフランス人神父アルマン・ダヴィドが、白と黒の奇妙なクマの毛皮を見せられた。これが、欧米でジャイアントパンダが知られるきっかけとなった。なお、この日を「パンダ発見の日」とするのは日本独自のことで、学術的に正確な話ではない。パンダの生物学的発見は、レッサーパンダが先であり、体格の大きい種が新たに発見されたことによって、元々「パンダ」と呼ばれていたものが「レッサーパンダ」、大きい方を「ジャイアントパンダ」と呼び分けることになり、さらに、「ジャイアントパンダ」の方が有名になるにつれて、「パンダ」の名が、「ジャイアントパンダ」の略称のように認識されるに至った。「ジャイアントパンダ」は、現在では中国の極めて限られた地域(西南部の四川省や、中部の陝西省等)に僅かな頭数が残存する、竹食等の草食傾向が比較的高い雑食性の大型哺乳類である。中華人民共和国の政権党である中国共産党は、各国との関係発展のために相手国にパンダを贈呈する、いわゆる「パンダ外交」を展開してきた。これが転じて、アメリカ等では、親中派が「パンダ・ハガー(パンダを抱く人)」と呼ばれることがある。日本においては、1970年代にジャイアントパンダの大ファンである女優・タレントの黒柳徹子が紹介し、その後、日中国交正常化により、東京都台東区にある東京都恩賜上野動物園に中華人民共和国から2頭贈られたため、日本中にパンダ・ブームが起こった。日本では、ジャイアントパンダの人気は高く、本種のいる日本の動物園では、それを目当てとした来園客が非常に多い。そのため、興行等で集客力のある人気者を指す「客寄せパンダ」という言葉が生まれた。また、その体の色から「白黒のもの」を指す言葉として使用されることがある。その顕著な例としては、日本のパトロールカー(パトカーと略される、警察官が乗車し、警察部門の各執行活動において使用される自動車で、制服警察官が乗務する)が挙げられる。現在、日本国内で飼育されているジャイアントパンダは、全て中華人民共和国から借入れている。日本国内で誕生したパンダについては、中華人民共和国との取決めにより、概ね性成熟に達する4歳になった時点で、中国に譲渡しなければならない。和歌山県西牟婁郡白浜町にある動物園、水族館、遊園地が一体になったテーマパーク『アドベンチャーワールド』は、中華人民共和国西南部に位置する四川省の省都、成都市の成都大熊猫繁育研究基地日本支部として活動している。成都大熊猫繁育研究基地との協力で進められているジャイアントパンダの繁殖研究事業では、2018(平成30)年9月現在までに17頭の繁殖実績があり、2017(平成28)年6月18日までに15頭育成している。これは、出産頭数、成長した子どもの数、共に中華人民共和国本土を除けば世界最多である。また、中華人民共和国国内以外で、双子のジャイアントパンダを両方共育てることに成功した、初めての施設である。2020(令和2)年11月22日には、18頭目となる雌の「楓浜」が誕生した。なお、レッサーパンダは、インド北東部、中国(西南部の四川省西部)、ネパール、ブータン、ミャンマー北部の標高約1,500mから約4,800mにある温帯・亜熱帯の森林や竹林に生息している。全身は長く柔らかい体毛で被われ、足裏も体毛で被われる。食性は雑食で、タケやタケノコを食べるが、小型哺乳類、鳥類の卵、昆虫、動物の死骸、果実、地衣類等も食べる。ジャイアントパンダの外見は、クマに似ていてクマ科の一種であるが、レッサーパンダはアライグマに近い外見であり、現世の近縁種を持たない。宅地開発や農地開発、薪採集等のため、森林伐採、単一種の植林、焼畑、放牧等による生息地の破壊、毛皮やペット目的の密猟や狩猟による混獲等により、レッサーパンダの生息数は減少している。日本では、1976(昭和51)年に釧路市動物園(北海道釧路市阿寒町にある北海道最大の動物園で、国内最東端の動物園ともなっている)で飼育下繁殖例がある。 飼育下でも繁殖は可能であり、現在、世界中の動物園で繁殖が行なわれている。元々、各地の動物園で人気者になりつつあったレッサーパンダであるが、2005(平成17)年5月、千葉市若葉区源町にある動物公園、千葉市動物公園で飼育されているオスの「風太」(報道等では、君付けされ「風太くん」と称される)が、30秒程度の間、後ろ足2本で直立する、と内外のマスコミで取上げられ、話題となった。レッサーパンダは元来、周囲の様子を覗う時に直立することがある。このニュースが話題になると、「風太」の祖父や母までも直立することが分かった。また、神奈川県横浜市旭区にある動物園、よこはま動物園ズーラシアの「デール」や、長崎県佐世保市船越町にある市営の動物園・植物園、佐世保市亜熱帯動植物園(現在の西海国立公園九十九島動植物園、愛称は「森きらら」)の「海」のように、2足で数歩歩く個体もいる。これを機に、各地の動物園で、後ろ足で立つレッサーパンダが取上げられ、「風太」が日本たばこ産業(JT)のCMに起用される等、話題が過熱したため、商用目的でレッサーパンダに過剰な負担を掛けることへの疑問や懸念が表明された。また、ブームの発端となった千葉市動物公園では、ラジオ番組の電話インタビューにおいて、「当初地方紙のみの記事であった筈が、いきなり全国的に取上げられたため、その過熱振りに困惑気味であった」と語っている。2足で歩くズーラシアの「デール」についてもバッシングがあったが、その内容は、「無理やり芸を仕込んでいる」という誤解に基づくものであった。ブーム下においては、直立したレッサーパンダの縫いぐるみ等のグッズが多数商品化された。但し、2本足で直立という状態は、基本的にレッサーパンダが頻繁に行なうものではない。

コモンウェルス・デー。
3月第2月曜日。5月24日は、ハノーヴァー朝グレートブリテン=アイルランド連合王国第4代女王(グレートブリテン国王兼アイルランド国王を含めたハノーヴァー朝の君主としては第6代女王)ヴィクトリアの誕生日で、かつてイギリスの祝日であった。1819(文政2)年のこの日、ヴィクトリアは、ハノーヴァー朝グレートブリテン=アイルランド連合王国第2代国王ジョージ3世の孫として生まれ、1837(天保8)年にウィリアム4世(ジョージ3世の第3子)の後を継いで、18歳で国王に就いた。在位は1901(明治34)年までで、その在位期間は約63年7ヶ月にも及び、歴代イギリス国王の中では、ウィンザー朝グレートブリテン=北アイルランド連合王国第4代女王エリザベス2世(前イギリス女王)に次ぐ長さである。この頃、イギリス(グレートブリテン=アイルランド連合王国)の国勢は最も盛んで、世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めたイギリス帝国(大英帝国)を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。これを記念して、イギリスの祝日となった。コモンウェルス(the Commonwealth)は、イギリスとその植民地であった国から成るイギリス連邦のことである。かつてはイギリス帝国(大英帝国)であったことから、この日は「エンパイヤ・デー(帝国の日、Empire Day)」と呼ばれる祝日であった。1904(明治37)年にイギリスで「エンパイヤ・デー」が制定され、1958(昭和33)年に「エンパイヤ・デー」から「コモンウェルス・デー」に改称された。現在では、過去の歴史的な意味合いを持たない日として、3月の第2月曜日が「コモンウェルス・デー(英連邦諸国の日)」となっている。元々、コモンウェルス(commonwealth)とは、公益を目的として組織された政治的コミュニティーを意味する用語である。17世紀から現在に至るまで「共和国」の同義語として扱われたが、20世紀に入ってからは、「複数の国家や行政区等に亘る友好提携(及び、その運営組織)」という新たな定義が加えられつつある。イギリス連邦は、かつてのイギリス帝国(大英帝国)がその前身となって発足した、イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合(集合体)である。イギリス連邦は、「連邦」というが、連邦国家、或いは連合国家ではなく、中央政府を有しない国家連合である。カナダ、、オーストラリア、ニュージーランド等、イギリス国王を自国の国王に擁く人的同君連合である英連邦王国も加盟国に含まれるが、独自の君主や大統領を元首に擁く国家も多数存在し、旧イギリス帝国(大英帝国)に由来する連合としては、最も広範かつ緩やかなものである。1931(昭和6)年、イギリス議会におけるウェストミンスター憲章(イギリス連邦体系に法的根拠を与えたもの)において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国(現在のアイルランド共和国で、後に脱退)、カナダ、ニューファンドランド(後にカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国で、後に脱退)をメンバーとして発足した。成立期のイギリス連邦は、ブロック経済としての側面を強める傾向にあった。1929(昭和4)年に始まった世界恐慌は、イギリス連邦にも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは、従来取っていた自由貿易主義を放棄し、他国からの輸入に関税をかけた一方で、イギリス連邦内においては、1932(昭和7)年のオタワ協定において相互に関税率を引下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによって、ポンド圏(スターリング・ブロック)が成立した。但し、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダは、このブロックには加入していなかった。逆に、イギリスと非常に強い経済関係にあったアルゼンチン(南アメリカ南部に位置する国)はこのブロックに加入する等、イギリス連邦とスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していた訳ではない。この帝国特恵関税、及びスターリング・ブロックは、第二次世界大戦中に崩壊し、以後イギリス連邦が経済ブロック化することはなかった。第二次世界大戦後、1947(昭和22)年にインドとパキスタンが独立したことで、白人連合としての性格が消滅した。さらに、この独立の際に、インドは近日中に制定される予定の憲法において、共和制を取ることを表明し、なおかつ、その後もイギリス連邦に留まることを希望した。この要望は受入れられ、1950(昭和25)年にインドが共和制を採った際、連邦へのインドの残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は、連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった。こうして、同君連合である英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、政治体制に係わらず、イギリスから新たに独立した国家がイギリス連邦に留まることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった。また、1949(昭和24)年には、従来の加盟国の中で最も反英的であったアイルランドが完全に連邦から脱退した。イギリスの国力の衰退は続き、1940年代から1950年代には、アジア諸国が次々とイギリスから独立した。さらに、1960年代には、アフリカ諸国が次々とイギリスから独立したが、こうした新独立国の殆どはイギリス連邦に留まった。ただ、イギリス本国はイギリス連邦よりも、統一化の進むヨーロッパ大陸を志向するようになり、欧州経済共同体(EEC)に加盟して、イギリス連邦からヨーロッパへと重心を移すこととなった。イギリスの正式名称は、日本語では、「グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国」とする場合(法文等)と「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」とする場合(条約文等)がある。「イギリス」は、ポルトガル語でイングランドを指す「Inglez(イングレス)」が語源で、元の意味に係わらず、連合王国全体を指して使われており、その一部を為す「イングランド」とは区別されている。江戸時代には。オランダ語の「Engelsch(エンゲルシュ)」を語源とする「エゲレス」という呼称も広く使用された。幕末から明治・大正期には、「英吉利」(えいぎりす = イギリス)や「大不列顛」(だいふれつてん = 大ブリテン)と漢字で表記されることもあり、「英吉利」が「英国」という略称の語源である。但し、「英国」は、狭義に連合王国全体でなく、イングランド(英格蘭)のみを指す場合もある。 
宋淵忌。
坐禅を基本的な修行形態とする禅宗の1つ、臨済宗の禅僧で、俳人としても知られた中川宋淵の1984(昭和59)年の忌日。中川宋淵は、多くの著名人が参禅に訪れた、静岡県三島市にある臨済宗妙心寺派の寺院、龍沢寺の住職として有名な禅僧で、第二次世界大戦終戦時の内閣総理大臣、鈴木貫太郎に終戦を勧めた臨済宗の禅僧、山本玄峰に師事した。1951(昭和26)年、その跡を継いで龍沢寺に住し、多くの弟子を育成した。山梨県の山村で暮らしつつ、格調の高い句を作った俳人の飯田蛇笏に師事し、俳句と禅が渾然(性質が円満で欠点のないさま)一体となった「俳禅一如」の俳句を作った。また、墨跡も数多く残している。