3月7日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

0161年 - ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(ティトゥス・フルウィウス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス)が死去。養子のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとルキウス・ウェルス(ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルス)が、共同皇帝として即位する。 
1778年 - イギリスの海軍軍人で探検家のジェームズ・クック(キャップテン・クック)が、太平洋中央部の洋上にあるハワイ諸島の1つで、最北端に位置する島、カウアイ島に到達する。ジェームズ・クックが最初に上陸したのは、カウアイ島南西部のワイメアで、このため、カウアイ島では、「ハワイ最初/オリジナルの観光地」という、皮肉の入ったスローガンが生まれている。ハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となったジェームズ・クック(キャップテン・クック)であるが、北アメリカの西海岸を探検した後、翌1779年にハワイ諸島に戻り、ハワイ島に滞在する。その際、ジェームズ・クック(キャップテン・クック)は先住民達と小競合いを起こし、刺殺されている。 
1788年 - 天明の大火(団栗焼け、申年の大火、京都大火、都焼け): 現在の京都市東山区宮川筋にある生活道路、団栗辻子から出火し、2日間に亘って京都市街を焼き尽くした京都最大の火災。約3万7,000軒の家屋が焼失し、御所や二条城、東西の本願寺も焼失。後桜町上皇(第117代天皇、後桜町天皇が退位した後の称号)は、青蓮院(現在の京都市東山区粟田口にある天台宗の寺院)を仮御所として避難する。
1866年 - 薩摩国/大隅国薩摩藩と長門国/周防国長州藩との間で、政治的で軍事的な同盟、薩長同盟が成立する。薩摩国/大隅国薩摩藩の西郷隆盛、周防国/長門国長州藩の木戸孝允らが、薩摩国/大隅国薩摩藩藩士の小松帯刀邸(後の政治家で、「維新の十傑[倒幕・明治維新に尽力した志士の内、幕臣以外の10名]」の1人とされる小松清廉の屋敷で、現在の京都市上京区に所在する)で会見し、倒幕のために政治的、軍事的同盟を結ぶ。薩長同盟は、幕府による長州藩処分問題に関して、長州藩の状況が悪くなっても、薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、共に倒幕へ向けて積極的に動き出そうとするものではない。また、「決戦」の相手として想定されているのは、幕府そのものではなく、「橋会桑」(当時京都政局を制圧していた御三卿、一橋徳川家の第9代当主の一橋慶喜[後の江戸幕府第15代将軍徳川慶喜]、会津藩第9代藩主の松平容保、伊勢国桑名藩第18代藩主の松平定敬の3者で、いわゆる一会桑政権)である。一橋家当主の一橋慶喜は、固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的対決の相手としては会津・桑名両藩、とりわけ会津藩を想定するもので、この密約に基づいて薩摩藩は、幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否し、以後、薩長の連携関係は深まっていくこととなる。 
1873年 - 初代天皇、神武天皇(現在の歴史学では、考古学上の確証がないこと、また、その神話的な筋書きから、神武天皇が実在した人物と認めていない)即位日を「紀元節」と称することを決定。 
1876年 - スコットランド生まれの科学者・工学者、アレクサンダー・グラハム・ベルが、電話機の特許権(電流の波形による電磁式電話の特許)を獲得する。 
1900年 - 「未成年者喫煙禁止法(明治33年3月7日法律第33号)」が公布される。 
1908年 - 青函連絡船の運航が開始される。青函連絡船は、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結ぶ日本国有鉄道(国鉄、現在の北海道旅客鉄道[JR北海道])の鉄道連絡船で、旅客に加え、船内に鉄道車両をそのまま積込んで津軽海峡を渡るものである。航路の名称は青函航路、営業キロ上の距離は113.0km(擬制キロ)で、津軽海峡という特定海域(国際海峡)を横断するため、平水区域(湖、川、及び港内等の水域)を航行する他の国鉄連絡船とは異なり、沿海航路扱いとされ、陸岸から最も離れる津軽海峡中央部でも20海里(約37.04km)以内のため、就航船の航行資格は沿海区域となっている。イギリスで建造された、当時最新鋭の蒸気タービン船『比羅夫丸』型2隻を擁して、国鉄直営航路として開設されて以来、本州と北海道の鉄道を連絡する基幹ルートとして、客貨双方の輸送を担った青函航路は、1972年には、1日最大30往復もの運航をする最盛期を迎えたが、1970年代後半以降は、旅客、貨物共に急激に減少し、減船、減便を重ねるようになる。1988年3月13日の青函トンネルの開通に伴ない、同日をもって青函航路は通常運航を終了する。廃止後、20年以上が経過した現在でも、青森駅には連絡船の案内表示や桟橋の可動橋へ向かう線路等、青函連絡船の痕跡が数多く残っており、函館駅や有川桟橋周辺にも、着岸の際に目標として用いていた標識等が、今でも僅かに残っている。青函航路の開設当初は、青森、函館とも連絡船が着岸できる岸壁はなく、沖繋りで、旅客や貨物は、小蒸気船やハシケを用いて乗下船、荷役が行なわれている。1910年に函館側で連絡船が着岸できるようになり、1921年には青森側でも着岸できるようになる。1925年からは、車両航送が正式に開始されている。
1914年 - ドイツ貴族出身のヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィートが、アルバニア公(東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する現在のアルバニアに存在したアルバニア公国の君主)に即位する。 
1918年 - 「経営の神様」との異名を持つ実業家・発明家、松下幸之助が、大阪市北区西野田大開町(現在の大阪市福島区大開)に松下電気器具製作所(現在の大手総合電機メーカー、パナソニックの前身)を創業する。 
1919年 - 東京府東京市日本橋区日本橋通(現在の東京都中央区日本橋)のデパート『白木屋』が会社化され、株式会社白木屋呉服店(現在の『東急百貨店』の前身)が設立される。 
1927年 - 北丹後地震。京都府丹後半島北部を震源とする直下型地震が発生。規模はマグニチュード(M)7.3、最大震度は震度6(烈震)。活断層による地震で、直交する2本の断層(郷村断層、山田断層)が地表に出現する。地震の揺れによる家屋倒壊等に加えて、地震の発生が夕食時であったことから、火災も多く発生し、特に、震源に近い京都府中郡峰山町(現在の京都府京丹後市の一部)では、約9割の家屋が全壊、又は全焼している。この地震による被害は、北近畿地方を中心に、中国・四国地方までと広範囲に及び、死者2,925名、負傷者7,806名等を出す大災害となる。 
1932年 - 玉の井バラバラ殺人事件。東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区東向島)にある私娼(公の営業許可を得ていない娼婦)街、玉の井付近に、通称「お歯黒どぶ」という動物の死骸等が遺棄される等、非常に汚れた下水溝があり、そこから男のバラバラ死体が発見される。この事件については当初、「コマきれ殺人」、「八つ切り殺人」等、さまざまな表現があったが、東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社版の前身)が用いた「バラバラ殺人事件」という表現に統一され、以後の同様の事件報道において定着することになる。 
1936年 - ドイツが、ロカルノ条約(現在のドイツ中西部にあるライン川沿岸の一帯、ラインラントの非武装の確認等を約した協定)の破棄を宣言して、ラインラントに進駐。 
1945年 - 第二次世界大戦: アメリカ軍がライン川に残った2つの橋の内の1つ、ルーデンドルフ橋を確保。ルーデンドルフ橋は、ドイツ南西部にあるレマーゲンとエルペルを結んでいた鉄道橋である。「レマーゲンの橋(レマーゲン[レマゲン]鉄橋とも」の名で呼ばれることが多い。この橋は、第二次世界大戦末期の西部戦線において唯一破壊されずに残っていた、ライン川を渡れる橋であったため、戦略上重要な地点となり、ドイツ軍とアメリカ軍の間で争奪戦が行なわれたことで有名である。 
1945年 - ユーゴスラビア(南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した国)で、ヨシップ・ブロズ・チトーを首班とする人民政府が成立する。