3月6日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1172年 - 武士としては初めて太政大臣に任ぜられ、政治の実権を握っていた平清盛の娘である平徳子が、第80代天皇、高倉天皇の中宮(天皇の妻)になる。 
1694年 - 高田馬場の決闘。江戸郊外戸塚村の高田馬場(現在の東京都新宿区西早稲田)で、伊予国西条藩初代藩主松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと、西条藩江戸詰め藩士の村上庄左衛門らが決闘する。剣術家堀内正春の道場で、同門であった中山安兵衛こと堀部武庸(赤穂浪士四十七士の1人で、四十七士随一の剣客)が、菅野六郎左衛門に助太刀して名を挙げる。通称の安兵衛で知られる堀部武庸は、高田馬場の決闘での活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った播磨国赤穂藩浅野家家臣、堀部金丸が養子縁組を望み、中山姓のままという条件で、堀部家の婿養子に入ることを決める。さらに、堀部金丸が隠居した際、堀部姓に変えている。 
1821年 - アナトリア(アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域であり、現在はトルコ共和国のアジア部分となっている)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝で、17世紀の最大版図では、地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国となっていた、オスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた、ギリシャ独立戦争が始まる。ギリシャは1821年に独立宣言をして戦闘を開始し、1822年に憲法を発布して暫定政府を設立する。1827年のナヴァリノの海戦(オスマン帝国艦隊と、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊との、ギリシャの大陸部分南端に広がる半島、ペロポネソス半島南西にあるナヴァリノ湾での海戦で、帆走主力艦同士の最後の戦いとなった)で優位を確定し、1829年のロシアとオスマン帝国とが締結したアドリアノープル条約(1828年から1829年にかけての露土戦争の講和条約)によって自治国としての独立が承認され、1830年のロンドン議定書によって、列強間でギリシャの完全な独立が合意され、最終的には、1832年6月のコンスタンティノープル条約(イギリス、フランス、ロシアの列強とオスマン帝国との間で署名されている)で、ギリシャの独立は正式に承認される。 
1836年 - テキサス革命: 現在のアメリカ合衆国南部、テキサス州サンアントニオにある、かつての伝道所と要塞の複合施設、サンアントニオ・デ・バレロ伝道所(通称はアラモの砦)が陥落し、アラモの戦いが終結。メキシコ軍がテキサス分離独立派に勝利する。 
1853年 - イタリアのロマン派音楽の作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『椿姫』が、イタリア北東部、ヴェネツィアにある歌劇場『フェニーチェ劇場』で初演。『椿姫』は、悲劇でも音楽的には明るさ、華やかさ、力強さを失わない、ジュゼッペ・ヴェルディの特質が最も良く発揮されており、人気の源泉となっている。準備不足(作品の完成から初演まで数週間しかなかった)等から、初演では聴衆からも批評家からもブーイングを浴び、歴史的大失敗を喫する(イタリアの作曲家、ジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』、フランスの作曲家、ジョルジュ・ビゼーが作曲したオペラ『カルメン』と共に、有名オペラの3大失敗ということがある)。しかし、翌年の同地での再演では、入念なリハーサルを重ねた結果、聴衆に受入れられ、その後も上演を重ねる毎に人気を呼び、今日ではジュゼッペ・ヴェルディの代表作とされるだけでなく、世界のオペラ劇場の中でも、最も上演回数が多い作品の1つに数えられる。 
1857年 - アメリカ合衆国最高裁判所が、ドレッド・スコット対サンフォード事件の判決を下す。この判決は、アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとしている。判決は、奴隷制度廃止運動家を激怒させ、奴隷制に関する論議を二極化することは、南北戦争に導く大きな要因になったと考えられている。 
1869年 - ロシアの化学者、ドミトリ・メンデレーエフが、元素は原子量の順に並べると、明らかにその性質毎の周期性を表わす、等の発表を行なう。周期律表(周期表)は、物質を構成する基本単位である元素を、それぞれが持つ物理的、又は化学的性質が似たもの同士が並ぶように決められた規則(周期律)に従い、配列した表である。これは、原則的に、左上から原子番号の順に並ぶよう作成されている。周期表上で元素は、その原子の電子配置に従って並べられ、似た性質の元素が規則的に出現する。 
1890年 - 政府が、日本三大財閥の1つである三菱財閥の2代目総帥、岩崎弥之助(三菱財閥の創業者で初代総帥、岩崎弥太郎の弟)に、東京・丸の内(現在の東京都千代田区に所在)一帯を払下げる。岩崎弥之助は、1885年2月に岩崎弥太郎が死亡してからは、2代目総帥として三菱の多角化に尽力する。政府からの、丸の内の土地購入の打診を受けて購入したが、これは後の「三菱の三大買い物」の1つに挙げられている。当時の丸の内は広大な草地で、明治時代には「三菱ケ原」と呼ばれていたが、歴史的な経緯から、現在では三菱グループ各社の本社が集中し、「三菱村」とも呼ばれる。マンション等の住宅や終夜営業の店が殆ど無いため、昼間人口と夜間人口の差が極端に大きいことが特徴で、平日の昼間はサラリーマンやOLで賑わうが、深夜は行き交う人も疎らとなる。2000年代初頭までは、昼間であっても週末や祝日は閑散としていたが、店舗が多く入る丸の内ビルディング(通称は丸ビルで、地上180m、37階建ての超高層オフィスビル)が2002年に完成して以降は再開発が進み、平日夜の早い時間帯や休日の人通りが大幅に増えている。山手線西側の新宿副都心等が台頭し、1997年8月3日に「漂流するオフィスビル超1等地-黄昏の街、丸の内」という特集が『日本経済新聞』夕刊9面で報じられる等、かつては地盤沈下が指摘されたが、2000年代に入ってからは、丸ビル等、老朽化したビルの建替えや、地区の中心を通る丸の内仲通りに高級ブランド・ショップや飲食店を誘致する等、三菱グループの総合デベロッパー(開発業者のことで、大規模な宅地造成やリゾート開発、再開発事業、オフィスビル建設、マンション分譲等の事業の主体となる企業)で、三井グループの御三家の1つに数えられる日本最大手の不動産会社、三井不動産と共に、不動産業界の双璧を成している大手不動産会社、三菱地所主導による再開発で盛返している。  
1893年 - 神奈川県に属していた西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡(三多摩)を東京都に編入。 
1897年 - 東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町)に所在した映画館『錦輝館』(1918年に火災により焼失)で、東京で初めて「電気活動大写真会」と銘打たれた映画興行が行なわれる。 
1907年 - 玉川電気鉄道(後に、東京横浜電鉄[現在の東京急行電鉄、東急の前身]に合併される)道玄坂上駅 - 三軒茶屋駅間が開業。二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、建設が出願されたものを起源とする玉川線は、同年4月1日に三軒茶屋駅 - 玉川間が開業し、8月11日には、渋谷駅 - 道玄坂上駅間開業も開業する。主に玉川通り(国道246号)を中心に、砂利輸送、地域輸送を行ない、路線の延伸、支線の開設、譲渡を経て、1969年に、一部区間(現在の世田谷線)を除いて廃止される。1907年から1938年までは、玉川電気鉄道(玉川電鉄)が運営し、1938年に玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に合併され、その後、東京横浜電鉄の後身である東京急行電鉄(東急)が運営している。東京都心の繁華街の一大ターミナルである渋谷駅から、郊外の住宅地域を経て、神奈川県大和市の中央林間駅を結ぶ通勤・通学路線であり、東横線と並ぶ東急の基軸路線である、現在の東急田園都市線の渋谷駅から二子玉川駅までの区間は、玉川線を継承する代替路線として建設された地下路線で、1977年4月7日の開業時から2000年8月5日までは「新玉川線」と呼ばれる。路面電車であった玉川線の敷地は、東急田園都市線と首都高速3号渋谷線の建設用地に利用されている。