3月6日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1水曜日 旧暦  1月26日、友引(己巳)、月齢 25.2  
グレゴリオ暦で年始から66日目、年末まであと300日。
誕生花 デージー・チューリップ(赤)・つくし。

ジャンヌ・ダルクの日。
1429(正長2)年、フランス王国の王位継承を巡るヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝、及びランカスター朝イングランド王国との戦いで、現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争、百年戦争で苦戦するヴァロワ朝フランス王国王太子シャルル7世の下に、神の啓示を受けたというジャンヌ・ダルクが現れた。「オルレアンの乙女」とも呼ばれるジャンヌ・ダルクは、現在のフランス東部で農夫の娘として生まれていた。百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、後に、ヴァロワ朝フランス王国国王シャルル7世の戴冠に貢献した。その後、ジャンヌ・ダルクは、イングランド王国側についてフランス王国と対抗したブルゴーニュ公国(現在のフランス東部からドイツ西部にかけての地域に存在した国)軍の捕虜となり、身代金と引換えにイングランド王国へ引渡された。イングランド王国と通じていたボーヴェ(現在のフランス北部に所在)司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問に掛けられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌ・ダルクは、19歳で火刑に処せられてその生涯を閉じた。ジャンヌ・ダルクが死去して25年後に、第209代ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌ・ダルクの復権裁判が行なわれ、その結果、ジャンヌ・ダルクの無実と殉教が宣言された。その後、ジャンヌ・ダルクは、1909(明治42)年に列福(キリスト教、カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人に次ぐ福者の地位に上げられること)、1920(大正9)年には列聖(キリスト教で聖人崇敬を行なう教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位に揚げること)され、フランスの守護聖人の1人となっている。ジャンヌ・ダルクは、フランス王国王太子シャルル7世を助けてイングランド王国に占領されていたフランス領を奪還せよ、という神の「声」を聞いたとされている。これを信じたシャルル7世は、イングランド王国軍に包囲されて陥落寸前であったオルレアン(現在のフランス中部に所在)へとジャンヌ・ダルクを派遣し、オルレアン解放の任に当たらせた。オルレアンでは、古参指揮官達から冷ややかな態度で迎えられたが、僅か9日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌ・ダルクは、徐々にその名声を高めていった。そして、ジャンヌ・ダルクは続く重要な幾つかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回したシャルル7世は、ランス(現在のフランス北部に所在)でフランス王位に就くことができた。フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌ・ダルクは西洋史上でも有名な人物の1人となった。18世紀にブルボン朝フランス王国で起きた市民革命、フランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立したナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家達がジャンヌ・ダルクを崇敬していると言われる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家達がジャンヌ・ダルクを主題とした作品を制作している。フランス海軍には、ジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が3隻存在している。1902(明治35)年竣工の装甲巡洋艦『ジャンヌ・ダルク』、1931(昭和6)年竣工の軽巡洋艦『ジャンヌ・ダルク』、1964(昭和39)年竣工のヘリ空母『ジャンヌ・ダルク』である。1337(延元2)年に勃発した百年戦争は、王位を巡るフランス国内の混乱に乗じて、イングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端であった。殆ど全ての戦いがフランス国内で行なわれ、イングランド軍の焦土作戦によって、フランス経済は壊滅的な打撃を受けていた。また、当時のフランスは、黒死病(ペスト菌による全身性の急性感染症、ペストの別名)によって人口が減っており、さらに、対外貿易も途絶えて、外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌ・ダルクが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間に亘って大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期であった。後にフランス王位に就くシャルル7世は、4名の兄が相次いで死去したために、14歳の時から王太子(法定推定相続人、君主位や爵位の継承において、将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第1位の人物)と目されていた。ジャンヌ・ダルクと初めて面会したシャルル7世は、神の声を聴いたと公言するジャンヌ・ダルクから強い印象を受けた。そして、ジャンヌ・ダルクは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになり、それまでフランス軍の指揮官達が採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌ・ダルクの主張する積極策に転じたフランス軍は勝利を重ね、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。1430(永享2)年には、フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれたが、間もなく失効した。その直後、ジャンヌ・ダルクが率いるフランス軍の1部隊が、ブルゴーニュ公国軍の攻撃を受け、ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ公国軍の捕虜となってしまう。当時は、敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引渡しを要求するのが普通であったが、ジャンヌ・ダルクの場合は、異例の経過を辿ることになった。最終的にイングランド王国が、ブルゴーニュ公国のブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)に身代金を支払って、ジャンヌ・ダルクの身柄を引取った。フランス人司教ピエール・コーションが、これら一連の交渉事と、その後のジャンヌ・ダルクの異端審問に重要な役割を果たすことになる。多くの歴史家達は、シャルル7世がジャンヌ・ダルクの身柄引渡しに介入せず、見殺しにしたことを非難している。ジャンヌ・ダルクの異端審問は政治的思惑を背景としていた。審理を主導したピエール・コーションは、当時の教会法に従えばジャンヌ・ダルクの裁判への司法権を有しておらず、物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌ・ダルクの異端審問裁判は開始される。ピエール・コーションの審理は、この裁判を開いたイングランド王国の意向に完全に沿ったものとなった。当時、異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛した後に、再び異端の罪を犯した時だけであった。しかし、1431(永享3)年に行なわれた異端審問の再審理で、ジャンヌ・ダルクが女装をするという誓いを破り、男装に戻ったことが異端に当たると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けた。百年戦争は、ジャンヌ・ダルクの死後も約22年に亘って続いたが、その終結後に、ジャンヌ・ダルクの復権裁判が開かれた。復権裁判では、異端審問での有罪判決が覆され、復権裁判法廷は、1456(康正2)年にジャンヌ・ダルクの無罪を宣告した。ジャンヌ・ダルクは、その死後4世紀に亘って半ば神格化されてきた。辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘であったジャンヌ・ダルクは、10代にして途方もない名声を手に入れた訳である。ジャンヌ・ダルクが目にした聖人達の姿と神からの声は、今でも興味の的となっている。研究者達のほぼ一致した見解は、ジャンヌ・ダルクの信仰心が揺ぎないものであった、ということになる。また、ジャンヌ・ダルクの身に起こったことは、間違いなく聖なる啓示であった、と考えるカトリック教徒もいる。