3月4日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1152年 - 西ヨーロッパの歴代ローマ皇帝の中でも有能なことで知られ、後世では、英雄とまで呼ばれたフリードリヒ1世が、神聖ローマ皇帝(現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家、神聖ローマ帝国の皇帝)に即位する。 
1167年 - 1160年の平治の乱で最終的な勝利者となった平清盛が、律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関、太政官の長官で、最高職となる太政大臣に就任する。平清盛は、武士としては初めて太政大臣に任せられ、日宋貿易によって財政基盤の開拓を行ない、宋銭を日本国内で流通させて通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を樹立する。政治の実権を握るが、平清盛らの平氏の独裁は、貴族・寺社・武士等から大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、平清盛は1181年に熱病で没する。 
1351年 - ラーマーティボーディー1世(ウートーン王)がアユタヤ王朝(現在の東南アジア、インドシナ半島中央部とマレー半島北半を領有するタイの中部、アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝)を創始。 
1386年 - バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中で最も南の国で、北東ヨーロッパに位置するリトアニアの大公ヨガイラが、ポーランド王ワディスワフ2世として戴冠(国王や皇帝が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位・皇位への就任を宣明する儀式を行なうこと)。    
1474年 - 一休宗純が大徳寺(現在の京都市北区紫野大徳寺町に所在)の住持に就任する。一休宗純禅師は、室町時代中期の臨済宗大徳寺派の僧侶で、大徳寺の住持であったが、諸国を漫遊する。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。戒律や形式に捉われない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、江戸時代に一休宗純禅師をモデルとして、『一休咄』に代表される「頓知咄(とんちばなし)」を生み出す元となる。 
1582年 - フランスの首都パリのレストラン『トゥール・ダルジャン』が開業。『トゥール・ダルジャン』は、フランスに本店、日本国内の東京都千代田区紀尾井町にある大型ホテル「ホテルニューオータニ」内に支店(『トゥールダルジャン東京店』)があるフランス料理のレストラン(グランメゾン)である。店名は、日本語で「銀の塔」の意味。鹿狩りの帰り、たまたま通り掛かったヴァロワ朝フランス王国第13代国王アンリ3世の知る所となってから、「上流階層の社交場」として発展し、その過程をして「フランス料理の歴史そのもの」と言わしめる程となる。ソムリエ(レストランで客の要望に応えてワインを選ぶ手助けをする、ワイン専門の給仕人)のメッカ(聖地)としても知られ、数多くの有名ソムリエを輩出している。19世紀末に活躍した給仕長のフレデリック・デレールは、手掛けた鴨の1羽1羽に番号を付け提供するというアイデアを発案し、これが、現在でも引継がれている。1921年6月21日、第124代天皇、昭和天皇(当時、皇太子裕仁親王)の来店に際しては53,211羽目の鴨で、1971年2度目の来店に際しては423,900羽目の鴨でもてなす。東京店では、これに由来し、53,212羽目の鴨からナンバリングしている。 
1604年 - 江戸幕府が東海道・東山道・北陸道に一里塚を設置する。一里塚は、旅行者の目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927km)毎に設置した塚(土盛り)で、塚の側に榎等の木を植えたり、標識を立てたりしている。平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関(都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門で、福島県白河市旗宿がその遺構として認定されており、国の史跡に指定されている)から陸奥湾(現在の青森県の下北半島、夏泊半島、津軽半島に囲まれた湾)までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代で、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりとなる。金山に関する才能に恵まれていた徳川氏の家臣、大久保長安は、堤防復旧や新田開発等にも長じており、徳川家康は、大久保長安の経理の才能を高く評価し、全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設等の一切を任される。江戸幕府は、江戸の日本橋を起点として全国の各街道の1里毎に一里塚を設置するよう指令を出し、大久保長安の指揮の元に一里塚の設置が行なわれ、10年程で完了している。一里塚の大きさは5間(約9.09m)四方、高さ1丈(約3.03m)に土を盛り上げて造られ、一里塚の上には、榎等の木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されており、植えられた樹木は、築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持っている。
1657年 - 3月2日に発生した明暦の大火(振袖火事)が、記録上鎮火する。明暦の大火(振袖火事)の火元は1ヶ所ではなく、本郷・小石川・麹町の3ヶ所から連続的に発生したもので、1つ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大となり、江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与え、江戸の三大火(明暦の大火・明和の大火・文化の大火)の筆頭としても挙げられる。 
1665年 - イギリスがオランダに宣戦布告し、第二次英蘭戦争が勃発する。 
1675年 - 1666年と1668年に起きた日食を正確に予言したイギリスの天文学者、ジョン・フラムスティードが、その功績が認められ、イギリスの初代王室天文官に任命される。王室天文官は、王室に対して天文学や関連する科学的な助言を与える王室直属の上級官である。 
1791年 - 1777年にイギリスから独立して建国された共和国、バーモント共和国がアメリカ合衆国に加入し、14番目の州、バーモント州となる。 
1791年 - イギリスの北アメリカ植民地を、アッパー・カナダとローワー・カナダ(アッパー・カナダからはセントローレンス川の下流に位置し、緯度に関しては、アッパー・カナダの方がローワー・カナダより南にあった)に分割する植民地統治法が、イギリス議会を通過する。 
1794年 - 連邦の訴訟に関して各州の主権による免責特権を扱っている、アメリカ合衆国憲法修正第11条が議会で可決される。 
1797年 - アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが退職する。
1798年 - 「湯島聖堂」を「昌平坂学問所(昌平黌)」と改称し、同時に江戸幕府の直轄とする。「湯島聖堂」は、第5代将軍徳川綱吉によって建てられた本来は孔子廟(中国の春秋時代の思想家、儒教の創始者である孔子を祀っている霊廟)である。東京都文京区湯島にあり、現在では「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。多くの人材が集まったが、明治維新政府に引継がれた後、1871年に閉鎖される。教育・研究機関としての「昌平坂学問所」は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる他、この地に設立された東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の源流と言える。なお、「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこから取って「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなる。 
1824年 - イギリスとアイルランド周辺の沿岸や海における救命活動を行なう、イギリスとアイルランドのボランティア組織、国立難破船救命協会(1854年に王立救命艇協会[RNLI]と名称変更する)が設立される。 
1863年 - アイダホ準州が設置される。 
1877年 - ロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキー作曲のバレエ作品『白鳥の湖』が、ロシア西部のモスクワにあるボリショイ劇場バレエ団により初演。『白鳥の湖』は、ピョートル・チャイコフスキーが作曲した『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』と共に、3大バレエと言われる。バレエが作られたのはロシアであるが、物語の舞台は『くるみ割り人形』と同じくドイツである。ピョートル・チャイコフスキーにとって、初めてのバレエ音楽であるが、初演当時は踊り手、振付師、指揮者に恵まれず、評価を得られなかったという。それでもしばらくは再演されていたが、衣装・舞台装置の破損等からいつしかお蔵入りとなり、その後、作曲者の書斎に埋もれていたが、フランス出身でロシアで活躍したバレエダンサー・振付師・台本作家、マリウス・プティパと、その弟子であるロシアのバレエダンサー・振付師、レフ・イワノフによって改造がなされ、ピョートル・チャイコフスキーの没後2年目となる1895年に蘇演(復曲)される。