3月3日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1105年 - 平安時代後期の武将で、奥州藤原氏(現在の東北地方一帯に勢力を張った豪族)の祖である藤原清衡が、現在の岩手県南西部にある平泉に、天台宗東北大本山の寺院、最初院多宝寺(中尊寺)を建立する。奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂(平安時代後期建立の仏堂)を始め、多くの文化財を有する中尊寺の境内は、「中尊寺境内」として、国の特別史跡に指定されている。2011年6月26日には、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の1つとして、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。中尊寺は、毛越寺(岩手県西磐井郡平泉町[創建時は陸奥国磐井郡平泉]に所在する天台宗の寺院)、瑞巌寺(現在の宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院)、立石寺(現在の山形市大字山寺にある天台宗の寺院で、「山寺」の通称で知られる)と共に、「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。「四寺廻廊」は、9世紀に第3代天台座主(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主[住職]で、天台宗の諸末寺を総監する役職)の円仁(慈覚大師)が開山し、17世紀には、俳諧(連句)の芸術的完成者であり、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の1人とされる松尾芭蕉が訪れた、東北地方の4つの寺を廻る巡礼コースで、2003年6月に発足している。 
1174年 - 平安時代末期の武将、源義経が、現在の滋賀県蒲生郡竜王町にある鏡の宿で元服。1160年、院近臣らの対立により発生した政変、平治の乱の顛末を描いた軍記物語『平治物語』では、早朝に都(現在の京都)を出た旅人の多くが最初の宿泊地とした鏡の宿で、16歳の遮那王は、成人した名を付ける烏帽子親もいないので、自ら源九郎義経と名乗って元服した、と記述している。なお、源義経とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語で、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている『義経記』では、父義朝の最期の地でもある尾張国(現在の愛知県西部)にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
1573年 - 室町幕府第15代将軍足利義昭が、織田信長討伐のために挙兵する。織田信長の軍事力を背景に上洛を果たし、室町幕府第15代将軍に就任した足利義昭であるが、織田信長は、将軍の後見人として権勢を振るうことになる。形式的には臣下となる織田信長に縛られることを嫌った足利義昭と、コントロールしようとする織田信長の間での対立は深刻化し、足利義昭は、反織田信長連合である信長包囲網を構築するべく、織田信長と対立する各地の勢力に御内書(室町幕府の将軍が発給した、私的な書状の形式を取った公文書)を発給する。織田信長の勢力拡大を危惧した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名、武田信玄が多数の軍勢を集め、織田信長の盟友、徳川家康の領内に大規模な侵攻を行ない、迎え撃った徳川家康と織田信長の援軍を撃破する。その武田信玄軍の勝報を受けた足利義昭は、それまでの織田信長との表面的な友好関係を脱し、自ら二条城(現在の京都市街の中にある平城、二条城とは別の位置にあり、織田信長が足利義昭の居城として築城した)に篭って挙兵する。しかし、武田信玄の病死や、足利義昭配下の武将らの離反等があり、足利義昭の目論見は外れてしまう。織田信長は足利義昭を攻めるが、天皇の勅命で一旦は講和を結ぶ。その後、再挙兵した足利義昭は、織田信長に敗れて追放され、室町幕府は実質的に終焉を迎える。
1803年 - 現在のポルトガルの首都リスボンにある軍事学校『コレジオ・ミリタール』が創立される。『コレジオ・ミリタール』の当初の設立目的は、フランス軍と戦うため国外に配置された将校の子息の保護と教育であり、フランスとの戦争後も現在まで、それは続いている。この学校は、ポルトガル、そしてヨーロッパの古い学校の1つであり、ポルトガルの権威ある軍事機関の1つでもある。 
1842年 - ドイツロマン派の作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンの交響曲第3番『スコットランド』が、作曲者指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ドイツ東部のライプツィヒに本拠を置くオーケストラ)によって初演。交響曲第3番『スコットランド』は、フェリックス・メンデルスゾーンが完成させた最後の交響曲である。「スコットランド」という標題は、フェリックス・メンデルゾーンがこの曲を着想したのがイギリス北部、スコットランドを旅行中であったことによる。ロマン派音楽の交響曲として代表的な存在であり、4つの楽章は休みなく連続して演奏されるよう指示されている。 
1845年 - フロリダが州に昇格し、アメリカ合衆国27番目の州、フロリダ州となる。 
1845年 - アメリカ合衆国議会が初めて、アメリカ合衆国大統領の拒否権に優越して法律を制定する。アメリカ合衆国大統領が、議会が制定した法案を承認しない場合は、法案には署名せずに、承認できない理由を明記した別書を添えて、日曜を除いた10日以内に議会に差戻す。これが、アメリカ合衆国大統領の「拒否権」と呼ばれるものである。 
1849年 - ミネソタ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国32番目の州、ミネソタ州となる。 
1849年 - アメリカ合衆国内務省が設置される。アメリカ合衆国内務省は、連邦政府における主要な環境保全機関として、国内で連邦政府の所有する公有地、及び天然資源の大半について管理責任を負っている。アメリカ合衆国以外の国における「内務省」は、多くが国内の治安維持・防諜・警察等の業務を所管しているが、アメリカ合衆国では、そうした業務は司法省の管轄下にあり、内務省はこのような任務を負っていない。 
1857年 - アロー戦争: フランスとイギリスが中国清朝に宣戦布告。 
1861年 - ロシア皇帝アレクサンドル2世が農奴解放令を発布し、3月5日から施行される。1853年に勃発したクリミア戦争(フランス、オスマン帝国[現在のトルコ共和国の前身]、及びイギリスを中心とした同盟軍等とロシア軍との戦いで、近代史上稀にみる大規模な戦争となり、ロシアの後進性が露呈する)における敗北は、農奴制(農奴と呼ばれる半自由民の農民が領主に隷属し、領主から土地を分与されて耕作に従事し、領主に対して賦役、生産物地代納入の義務を負っていた封建的身分・社会制度)ロシアの後進性を白日の下に曝け出す。革新的官僚や軍人、一部知識人、さらに、ロシア皇帝アレクサンドル2世自身が、農奴制の廃止を含む、根本的な改革の必要性を痛感する。そして、農奴解放令が成立し、ロシア全土で約2,300万の農奴が解放される。農奴は人格的自由を得、土地を分与されたが、分与地に対しては、地代の約16.7倍にも達する額の支払い義務を負う。また、分与地面積は不十分で、地主は一定規準以上の農民保有地を「切取地」として自らに確保し、農民には条件の悪い土地を分与している。 
1865年 - 香港上海銀行(HSBC)が設立される。現在の中国南部にある香港に本社を置き、主に在華外国企業(サッスーン洋行、ジャーディン・マセソン商会、デント商会等のアヘン貿易商社)の、インド等の他の大英帝国の植民地との間における(アヘン貿易の利益のイギリス本国への送金を含む)貿易金融を扱った他、通貨の発行も行なう。設立翌年の1866年には、日本支店を横浜に設立し、その後、大阪や神戸、長崎にも次々に支店を開設する。日本政府の貿易金融政策の顧問業務や、造幣への協力を行なった他、日本最初の近代的銀行で、東京銀行(現在の三菱UFJ銀行の源流銀行の1つ)の前身である横浜正金銀行が、その体制を作る際には、香港上海銀行をそのモデルにし、香港上海銀行も多くの協力を行なっている。