3月2日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1土曜日 旧暦  1月22日、仏滅(乙丑)、月齢 21.2  
グレゴリオ暦で年始から62日目、年末まであと304日。
誕生花 ストック・アイスランドポピー・ラナンキュラス・花キンポウゲ。

遠山の金さんの日。
1840(天保11)年3月2日(旧暦)、「遠山の金さん」こと遠山影元(通称は遠山金四郎で、官位は従五位下左衛門少尉)が、江戸北町奉行に任命された。江戸以外の幕府直轄領(天領)の内、重要な場所に置かれ、その土地の政務を取扱った遠国奉行の1つで、鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった肥前国長崎(現在の長崎市)を管轄し、有事の際には九州の諸大名の指揮を執る役目も担っていた長崎奉行等を務めた遠山景元の父、遠山景晋は、江戸幕府の対外政策の第一戦を担って東西奔走した。その遠山景晋の通称であったのが金四郎で、遠山影元は、父の通称、金四郎を受継いでおり、中級武士に与えられることの多い人が就く官位(人が就く官職[国の機関で働く人に割当てられた職務や、その責任によって生ずる地位]と、人の貴賤を表わす序列である位階の総称)、左衛門少尉(左衛門尉)も、父と同様に受けている。遠山景元は、貨幣経済の発達に伴なって逼迫した幕府財政の再興を目的とした改革、天保の改革を行なった老中、水野忠邦に近い人物として重用された。風俗取締りの町触れを出したり、寄席の削減を一応実行している等、水野忠邦の方針の一部には賛成していた。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対し、後に水野忠邦らと対立する。1843(天保14)年には、江戸北町奉行を罷免され大目付になる(地位は上がるも実質的には閑職への配転)が、その年には、水野忠邦が改革の失敗により罷免される等して、遠山景元は江戸南町奉行として返咲いた。同一人物が南北両方の江戸町奉行を務めたのは極めて異例のことである。南町奉行在任中は、幕府や諸藩の許可を得た独占的な商工業者の同業組合である株仲間の再興に尽力し、床見世(現在の露店に相当する)の存続を幕府に願い出て実現させた。水野忠邦の後を受け、政権の地位に座った阿部正弘からも重用された遠山影元は、1851(嘉永4)年の赦律(江戸幕府によって制定された恩赦[天皇の大権によって刑罰を軽減することで、皇室や国家の慶事、凶災の際等に行なわれたが、江戸時代には幕府や諸大名も行なった]に関する法令)編纂にも関わっている。町奉行とは、江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政、及び司法を担当する役職で、幕府だけでなく、諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は、幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。現代でいう警察と裁判所の役割を持った公的機関であり、その他にも町方(町人)の調査や防災等、広い範囲の行政も担当していた。また、他の奉行(寺社奉行や勘定奉行)も、その職権が定められた範囲において司法権を持つ役職であり、司法権は、町奉行のみが有した権限ではない。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行と合わせて三奉行と称された。他の二奉行と同様、評定所(幕政の重要事項や、大名や旗本の訴訟、複数の奉行の管轄に跨る問題の裁判を行なった機関)の構成メンバーであり、幕政にも参与する立場であった。基本的に、定員は2名である。初期には大名が任命され、後になると旗本が任命された。旗本が任命されるようになってから以降の町奉行の石高は、3,000石程度であった。旗本は、徳川将軍家直属の家臣団の内、石高が1万石未満で、儀式等、将軍が出席する席に参列する御目見(将軍に直接拝謁すること)以上の家格を持つ者の総称で、旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。町奉行は、旗本が就く役職としては最高のもの(格式は、老中の下に属し、大名や高家[江戸幕府における儀式や典礼を司る役職]、及び朝廷を監視して、これらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った役職、大目付の方が高い)で、旗本、御家人(旗本以外の徳川将軍家直属の家臣団の者)の監視や、諸役人の勤怠等を始めとする政務全般を監察し、一部の犯罪については裁判権も持っていた役職、目付から、遠国奉行や勘定奉行等を経て、司法・民政・財政等の経験を積んだ者が任命されたが、有能な人物が選ばれていることから、特に目付を経験していることが重要視された。1631(寛永8)年に幕府が町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任ぜられた者が、その邸宅に白州を作ってその職務を執り行なっていた。白洲は、江戸時代の奉行所等、訴訟機関における法廷が置かれた場所で、その名は、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。最も古い時代には、土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったから、と言われている。町奉行所の管轄区域は江戸の町方のみで、面積の半分以上を占める武家地や寺社地には権限が及ばなかった。ただ、寺社の門前町については、後に町奉行管轄に移管された。町奉行の職務を執り行なう場所として、役職の名前に由来する町奉行所が建てられ、町人達からは御番所や御役所と呼ばれていた。江戸の町奉行所は主に2つで、北町奉行所(北番所)が、現在の東京都千代田区丸の内に所在する東京駅の八重洲北口(東京駅では、西側の出口[皇居方面]を「丸の内口」、東側の出口[日本橋方面]を「八重洲口」と称することから、駅西側一帯を「丸の内」、東側一帯を「八重洲」と通称しているが、東京駅の駅舎、プラットフォーム等の施設は全て、東京都千代田区丸の内に位置し、東京都千代田区丸の内と東京都中央区八重洲の境界は、東京駅八重洲口駅前よりもやや東にある)付近に、南町奉行所(南番所)は、現在の東京都千代田区有楽町に所在する複合商業施設、有楽町マリオン付近に置かれていた。遠山景元の死後、講談や歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、昭和期の脚本家・作家、陣出達朗による時代小説『遠山の金さん』シリーズ等で普及した。現在では、テレビドラマの影響を受けて名奉行として世に認知され、江戸南町奉行大岡越前守忠相(大岡越前)と人気を二分することもあるが、ドラマのような名裁きをした記録は殆どない。そもそも、三権分立(立法・行政・司法の権力分立)が確立していない時代、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅している。言わば、東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であり、現在でいうところの裁判官役を行なうのは、町奉行の役割の一部でしかない。ただ、当時から裁判上手という評判はあったようで、江戸幕府第12代将軍徳川家慶から裁判振りを激賞され、奉行の模範とまで讃えられた。遠山景元が度々、水野忠邦らと対立しながらも罷免されなかったのは、この将軍からの「お墨付き」のおかげと考えられる。遠山景元のこうした「能吏中の能吏」としての名声は、時代が江戸から明治に移っても旧幕臣を始めとした人々の記憶に残り、遠山景元を主人公とした講談を生み、映画やテレビの時代劇へ継承される大きな要因となったと言える。遠山景元は、青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたと言われる。有名な「桜吹雪」である。しかし、これも諸説あり、「右腕のみ」や「左腕に花模様」「桜の花びら1枚だけ」「背中に女の生首「全身くまなく」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説や、通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。遠山景元が彫り物をしていたことを確証する文献はないが、時代考証家・歴史小説家の稲垣史生によれば、若年の頃に侠気の徒と交わり、その際いたずらをしたものであると推測される。続けて稲垣史生の言によれば、奉行時代しきりに袖を気にして、捲り上がるとすぐ下ろす癖があった。奉行として入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかという。ただ、これらは全て伝聞によっており、今となっては事実の判別はし難い。