2月28日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-202年 - 劉邦(高祖)が皇帝に即位し、約4世紀に及ぶ中国の漢王朝の支配が開始される。 
1638年 - 主教戦争: スコットランドで、国王チャールズ1世の教会政策に反発し、国民盟約(抵抗運動組織)が結成される。 
1784年 - イングランド国教会の司祭ジョン・ウェスレーがメソジスト運動を開始。メソジストは、キリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張、メソジズムに生きた人々や、その運動のことで、その特徴は、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨したことである。「メソジスト」という名称は「メソッド」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)と渾名されたことに始まる。 
1850年 - アメリカ合衆国西部、ユタ州ソルトレイクシティにある州立大学、ユタ大学が創立される。ユタ大学は、州の旗艦大学として、医学、化学、人文科学、経済学、教育学、工学、芸術等の分野で100以上の学部専攻と92の修士・博士専攻を提供している総合研究大学である。大学院には法学部と、州で唯一の医学部を含む。メディカルスクールは、全米で高い評価を受けており、全米でも有名なドクターを多数輩出している。
1861年 - コロラド準州が成立。 
1880年 - 横浜正金銀行(後の東京銀行、現在の三菱UFJ銀行の前身の1つ)が営業開始。横浜正金銀行は、1872年制定の「国立銀行条例(明治5年11月15日太政官布告第349号)」準拠(既にある規格や基準、標準に従うこと)の銀行で、外国為替(通貨を異にする国際間の貸借関係を、現金を直接輸送することなく、為替手形や送金小切手等の信用手段によって決済する方法)システムが未確立であった当時、日本の不利益を軽減するよう、現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としており、その名の通り、現在の神奈川県横浜市中区に本店を置いている。貿易金融や外国為替に特化した銀行であり、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、中国大陸南部にある香港に本店を置く香港上海銀行(イギリスに本社を置く世界最大級のメガバンク、HSBCホールディングス傘下)、チャータード・マーカンタイル銀行(イギリス系の海外銀行)と並ぶ外国為替銀行へと発展していったが、第二次世界大戦後、日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関と見做されたため、1946年には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって解体・清算され、外国為替銀行としての役割は、新たに設立された東京銀行に引継がれることとなる。東京銀行は、日本で唯一の外国為替銀行となったが、便宜上都市銀行として扱われ、BANCS(都市銀行間を接続するCD/ATMの相互接続ネットワーク)にも参加している。1996年、三菱銀行と合併し、東京三菱銀行となる。事実上対等(若しくは、やや東京銀行側寄り)な合併であり、「国立銀行条例」に基づき、政府の3分の1出資により設立された、横浜正金銀行を源流とする特殊銀行(外為銀)である東京銀行のブランド性と、富豪の金融事業に端を発する三菱銀行のボリューム力が、互いの求める部分に合致した、非常に合理的な相互補完、と言える。その後、2006年1月に、東京三菱銀行がUFJ銀行を救済合併(吸収合併)した際は、新銀行名を三菱東京UFJ銀行としていたが、2018年4月1日には、商号を三菱UFJ銀行と変更し、「東京」の名は、商号から消えている。 
1897年 - アフリカ大陸東南部のインド洋沖にあるマダガスカルを占領したフランス軍が、メリナ王国(マダガスカルの大部分を支配していた王国)最後の国王ラナヴァルナ3世を、マダガスカル島東方のインド洋上に位置するレユニオン島に流し、退位させる。 
1901年 - 東京帝大史料編纂掛(現:東京大学史料編纂所)が最初の日本史史料集『大日本史料』を刊行する。『大日本史料』は、現在まで刊行が続けられている日本史の史料集である。古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史、六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)の後、国史の編纂事業が行なわれていないため、その欠落部分を埋めるべく編纂が始まっている。平安時代の第59代天皇、宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要なできごとについて年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する。当初は正史(通史)を記述する計画であったが、結局史料集を編纂することになる。編集方針は、江戸時代に和学講談所(盲人でありつつも、国学者として活躍した塙保己一が開設)で編纂された「史料」を基礎とする。「史料」は、宇多天皇から第68代天皇、後一条天皇(1016年即位)までが対象である。史料編纂掛では、宇多天皇の887年から1867年を16編に分けて編纂を行ない、「史料稿本」(5,600冊程の草稿)を作成する。『大日本史料』の刊行は1901に始まり、「史料稿本」を基に校訂作業が行なわれ、各編毎に順次刊行を行なっている。これまでに422冊(2022年1月現在)が刊行され、近年ではおよそ、年に3冊程度のペースで刊行されている。『大日本史料』として刊行されているのは、第12編(江戸時代初期の1603年から1651年までが対象)までである。それ以降(第13編から第16編まで)の「史料稿本」は作られているが、刊行されていない。近世については、別に『大日本近世史料』や『大日本維新史料』がある。『大日本史料』には未刊行部分が多いため、「史料綜覧」が刊行されている(既刊17巻で、17巻は1639年までが対象)。「史料綜覧」は、歴史上の重要事件について、「綱文」と称する事件の概要を表わす文章の部分と、引用史料の名称を掲載しており、未刊行部分の時期を調べる際の手掛かりになる他、詳細な年表としても利用できる。また、『大日本史料』のデータベース(「史料稿本」等を含む)が、東京大学史料編纂所の公式サイトで公開されている。 
1922年 - イギリスが、アフリカ大陸北東部に位置するエジプトの保護統治権を放棄し、エジプトが事実上独立する。エジプトには、ムハンマド・アリー朝による王朝が19世紀前半に成立していたが、イギリスはエジプトを軍事占領下に置く。スエズ運河を通じて繋がったインドを植民地とするイギリスは、大英帝国の生命線であるエジプトの掌握に細心の注意を払い、オスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)の宗主権とムハンマド・アリー朝の政府を温存する一方で、イギリス領事やイギリス人顧問によって、実質上のエジプト政府支配を実現する。1914年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がイギリスと敵対するドイツ・オーストリア等、中央同盟国の側に参戦すると、イギリスはエジプトにおける権益を守るため、エジプトの保護国化を宣言し、オスマン帝国の名目的主権からエジプトを離脱させる。これにより、エジプトは正式にイギリスの植民地となったが、大戦後の1919年には、民族主義者による大規模な独立運動が勃発する。独立は失敗に終わるが、保護国支配の限界を理解したイギリスは方針を転換し、1922年にエジプトの独立を認め、エジプト王国を成立させる。 
1926年 - 松島遊郭疑獄で立憲政友会(1940年に解散)、及び憲政会(1927年に解散)両党の幹部を検挙。松島遊廓疑獄は、現在の大阪市西区千代崎にあった大阪最大の遊廓、松島遊廓の移転計画を巡り、複数の不動産会社から政治家3名が、移転を巡る運動費を受取ったとされた汚職事件である。現職総理大臣が予審尋問を受けるという前代未聞の事態は、第一次若槻禮次郎内閣総辞職の遠因にもなったが、後の裁判では全員が無罪となる。 
1928年 - インドの物理学者、チャンドラセカール・ラマンが、ラマン効果(物質に光を入射した時、散乱された光の中に、入射された光の波長と異なる波長の光が含まれる現象)を発見する。1930年のノーベル物理学賞受賞者であるチャンドラセカール・ラマンは、インド本国で研究したインド人研究者としては、初めてのノーベル賞受賞者で、インド人としても有色人種としても、1913年にノーベル文学賞を受賞した詩人・思想家、ラビンドラナート・タゴールに次ぐ受賞者となる。