2月27日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1593年 - 碧蹄館の戦い。朝鮮半島の碧蹄館(現在の韓国北西部、高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌(現在の朝鮮民主主義人民共和国[北朝鮮]の首都ピョンヤン)奪還の勢いに乗り、漢城(現在の韓国の首都ソウル)目指して南下する提督、李如松率いる約40,000余の明軍を、宇喜多秀家、小早川隆景らが率いる約41,000の日本勢が迎撃して打破る。この戦いの敗北によって、李如松は戦意を喪失し、明軍の勢いは削がれ、武力による日本軍撃退方針を諦めて、講和交渉へと転換する。その一方で、日本軍も3月に明軍に漢城近郊の龍山にある兵糧倉を焼払われ、食料調達が最も困難な時に、兵糧面で甚大な損失を出したため長期戦が難しくなり、石田三成、小西行長らは、明との講和交渉を開始している。 
1594年 - フランス王アンリ4世が戴冠(国王や皇帝が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位・皇位への就任を宣明する儀式を行なうこと)。   
1700年 - イギリスの航海者・博物学観察者・作家、ウィリアム・ダンピアが、ニューブリテン島(メラネシア[南太平洋のオーストラリア大陸より北から北東に位置する島々の総称]にある島)にヨーロッパ人で初めて到達する。ウィリアム・ダンピアは、オーストラリア等、南太平洋にある大陸や島々をを探検した最初のイギリス人で、世界周航を3回成遂げた最初の人物である。北アメリカ大陸南東部とメキシコ北東部に挟まれた湾、メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域であるカリブ海周辺で、スペイン船への海賊行為に参加していたウィリアム・ダンピアは、南アメリカ大陸最南端のホーン岬を経由して太平洋に入り、太平洋の南西部に到達した後、アフリカ大陸最南端に近い喜望峰を回り、貴重な手記を携え、1691年にイギリスへと帰国する。1697年に「最新世界周航記」として出版されたウィリアム・ダンピアの手記は、海軍省に注目され、オーストラリアと太平洋南部に位置するニューギニア島の探検を実施する。その際、ニューギニア島やニューブリテン島等を発見し、ニューギニア島の東に位置するソロモン海と、ニューギニア島の南西にあるビスマルク海を隔てる海峡、ダンピア海峡(ダンピール海峡とも表記される)を発見し、その名の由来ともなる。遠征の記録を書いた後のウィリアム・ダンピアは、私掠船(戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船で、厳密には海賊ではない)の指揮官となり、2度の世界周航を果たして、1715年に死去している。ウィリアム・ダンピアが名付けたニューブリテン島は、1884年から1914年までの間、ドイツが支配したが、1919年以降、オーストラリアによる国際連盟委任統治領(国際連盟によって委任された国が、国際連盟理事会の監督下において、一定の非独立地域を統治する制度による統治領)となる。第二次世界大戦対米英戦が勃発すると、1942年にニューブリテン島を日本軍が占領し、南方作戦の拠点とする。ドイツが建設した街で、ドイツ領時代はシンプソンハーフェンと呼ばれた、ニューブリテン島北東端にあるラバウルは、日本軍の占領後、陸海軍合わせて約9万余の大軍が配置される。日本軍は、豊富な兵力と自給自足体制による食料の確保、そして、堅固な要塞を築き上げていたことから、連合軍は反攻に当たり、頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず、包囲するに止めた結果、終戦時まで日本軍が、ラバウルを占領、保持することとなる。1945年発売の日本の戦時歌謡で、軍歌として知られる『ラバウル小唄』は、1940年に発売された『南洋航路』(作詞作曲は同じ人物である)が元歌で、歌詞にラバウルの地名が入っていたこともあり、南方から撤退する兵士達によって好んで歌われる。このため、第二次世界大戦対米英戦末期に日本で流行したことから、レコードとして広まったというより、兵士達が広めたと言える。なお、東宝(映画・演劇の製作配給・興行や不動産賃貸を手掛ける企業)の製作・配給で、1954年2月10日に公開された長編戦争映画『さらばラバウル』の題名は、第二次世界大戦対米英戦中の流行歌『ラバウル小唄』の歌詞から取っている。
1814年 - ドイツの作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『交響曲第8番』が初演。『交響曲第8番』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲の中では、比較的小規模で、従来の古典的な形式に則っているが、独創的な工夫と表現に溢れた傑作である。『交響曲第7番』等、他の曲の方が人気が高いのに対し、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン自身は、「聴衆がこの曲(『交響曲第8番』)を理解できないのは、この曲が余りに優れているからだ」と語った、とされる。
1844年 - 南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海海域の洋上、西インド諸島の大アンティル諸島のイスパニョーラ島東部に位置するドミニカ共和国が、ハイチ共和国から独立する。イスパニョーラ島は、西側約3分の1をハイチ共和国、東側約3分の2をドミニカ共和国が統治している。 
1868年 - ユダヤ人(ヤハウェ[アッラー]を唯一神として奉じる信仰、ヤハウェ信仰を起源とするユダヤ教を信仰する人々)の家系に生まれ、作家活動も行ないながら政治家となった、ベンジャミン・ディズレーリが、イギリスの第40代首相に就任(第一次)。 
1870年 - 「郵船商船規則(明治3年1月27日太政官布告第57号)」(旧暦では1月27日となる)が布告される。日本の商船は日章旗(日の丸、白地に赤い丸をベースとしている旗)を掲揚することとし、その規格を定める。
1875年 - 現在の東京都文京区白山に本園が所在する、東京大学の附属施設の1つで、植物に関する様々な研究を行なっている東京大学大学院理学系研究科附属植物園(通称は、小石川植物園)が、文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)所轄教育博物館附属小石川植物園と改称される。小石川植物園は元々、東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府によって開園された小石川御薬園で、江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、甘藷(現在のサツマイモ)の普及を図り、「甘藷先生」と呼ばれる青木昆陽が、飢饉対策作物として1735年に甘藷の試験栽培を行なった所としても有名である。明治維新により、東京府(現在の東京都の前身)管轄、大病院附属御薬園と改称された後、現在の東京大学が1877年に開設されると、帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部の前身)の附属施設となり、広く一般植物等を多種揃えた、植物学の研究施設として生まれ変わったと同時に、一般にも公開されるようになる。2012年9月19日には、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として、国の名勝(芸術上、又は観賞上価値が高い土地について、日本国が指定を行なったもの)、及び史跡(貝塚、集落跡、城跡、古墳等の遺跡の内、歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるもの)に指定される。
1876年 - 日本と李氏朝鮮が、日朝修好条規に調印。日朝修好条規は、朝鮮が中国清朝の冊封(中国の皇帝が、朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号や爵位等を与えて君臣関係を結び、周辺諸国の君主にその統治を認める中国の対外政策)から独立した国家主権を持つ独立国であることを明記するが、片務的領事裁判権の設定や、関税自主権の喪失といった、不平等条約的条項を内容とすること等が、その特徴である。 
1879年 - アメリカの化学者、コンスタンチン・ファールバーグとアイラ・レムセンが、人工甘味料「サッカリン」を合成。「サッカリン」は、発見されて間もなく商用化され、第一次世界大戦が始まって砂糖が不足すると急速に普及し、1960年代から1970年代には、ダイエットへの有効性が認識され、広く使われるようになる。1960年代に、サッカリンには弱い発癌性があると考えられ、一度は使用禁止になるが、後に見直しを受け、現在では発癌性物質リストから削除されている。現在、アメリカ合衆国や中華人民共和国等では大量に使用されているが、日本においては安全性維持のため、「食品衛生法(昭和22年12月24日法律第233号)」により、各食品への使用量が制限されており、外装にその旨と使用量が記載されている。