2月26日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4月曜日 旧暦  1月17日、大安(庚申)、月齢 16.2  
グレゴリオ暦で年始から57日目、年末まであと309日。
誕生花 アドニス・スノードロップ・ローダンセ・福寿草。

二・二六事件の日。
1936(昭和11)年2月26日、二・二六事件が発生した。大日本帝国陸軍内の派閥の1つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(高等普通教育[現在でいう後期中等教育]を行なっていた旧制中学校から、士官学校[陸軍の現役の兵科の将校となる者を養成する学校]に進み任官した、20歳代の隊付の大尉・中尉・少尉達)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、青年将校らが政治腐敗と考える、政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。青年将校らはこの考えの下、この日未明に決起する。青年将校らは、東京近郊の警備を主任務としている第1師団の歩兵第1連隊と歩兵第3連隊、近衛師団(天皇と宮城[皇居]を警衛する「禁闕守護」の責を果たす、最精鋭、かつ最古参の部隊)、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊(日本陸軍初の機械化砲兵部隊)、等の部隊中の一部、約1,400名を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣(死亡)、高橋是清大蔵大臣(死亡)、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞等も襲撃し、日本の政治の中枢である東京の永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を占領した。反乱軍は機関銃等、圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。その上で、青年将校らは軍首脳を経由して、第124代天皇、昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし、昭和天皇は「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。襲撃を受けた岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣がいずれも海軍大将で、海軍軍政の大物であったことから、東京府東京市麹町区霞ヶ関(現在の東京都千代田区霞ヶ関)にあった海軍省は、事件直後の2月26日午前より、反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。26日午後には、横須賀鎮守府(司令長官米内光政中将、参謀長井上成美少将)の海軍陸戦隊を東京府東京市芝区芝浦(現在の東京都港区芝浦)に上陸させ、東京に急派した。また、戦艦を主力とした決戦艦隊に位置付けられていた第1艦隊を東京湾に急行させ、2月27日午後には日本海軍を代表する戦艦『長門』以下、各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、2月27日午前9時40分に、加藤隆義海軍中将が率いる、重巡洋艦を主力とした第2艦隊の旗艦、重巡洋艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。軍と政府は、青年将校らを「叛乱軍」として武力で鎮圧することを決意し、包囲して投降を呼掛けた。ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。・・・」に始まる勧告が放送される等し、師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。これらにより、青年将校らは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。事件の収拾後、岡田啓介内閣は総辞職し、後継の広田弘毅内閣が、思想犯を公権力の下に監視しておくために「思想犯保護観察法(昭和11年5月29日法律第29号)」を成立させた。「思想犯保護観察法」は、昭和維新運動(明治維新の精神の復興や天皇親政を求める運動)の弾圧や、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取締まることを目的として制定された「治安維持法(大正14年4月22日法律第46号、旧法)」(1941[昭和16]年に全部改正され、「治安維持法[昭和16年3月10日法律第54号]」となる)の罪を犯した者に再び罪を犯させないために、本人を保護し、その思想行動を観察することを目的とする、刑事政策の一環であった。思想輔導官、思想保護司が保護観察に当たり、保護観察審査会が設けられ、保護観察の要否、或いは、その期間(原則としては2年間)更新の要否等の審査、議決に与らせた。全国22ヵ所に保護観察所が置かれ、保護観察に付された者は、保護司によるか、或いは、保護者に引渡し、又は保護団体,寺院,教会等に委託して、私生活に及ぶ監視が実施された。「思想犯保護観察法」は、第二次世界大戦後の1945(昭和20)年、「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク治安維持法廃止等ノ件(昭和20年10月15日勅令第575号)により廃止された。広田弘毅内閣は、元老(政府の最高首脳であった重臣)主導者であった西園寺公望の奏薦(官吏の任官等について天皇に推薦を行なうこと)により、岡田啓介内閣で外務大臣を務めていた広田弘毅が、二・二六事件の後に組閣した実質的挙国一致内閣である。軍部の抵抗により組閣は難航したが、広義国防国家の樹立を目標とし、経済の国家統制を進め、準戦時体制の整備に努めた。また、内閣総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣、外務大臣の5閣僚によって開催された会議五相会議で、軍備増強と準戦時体制の構築を目指す「国策の基準」を定め、軍部大臣現役武官制を復活し、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛を謳っており、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった「共産『インターナショナル』ニ対スル協定(日独防共協定)」を締結、軍国主義国家体制の先鞭を付けた。事件では、5名の警察官が殉職し、1名が重傷を負った。この他に、歩兵第15連隊の兵士4名が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡する等、鎮圧側部隊の兵士計6名が、2月29日から3月1日にかけて死亡している。事件の裏には、陸軍中枢の皇道派(天皇親政の下での国家改造[昭和維新]を目指した陸軍内の派閥)の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気に逸る青年将校が不逞(あからさまに不満を表わすこと)の思想家に吹込まれて暴走した」という形で世に公表された。この事件の後、皇道派は壊滅し、陸軍軍人・政治家の東條英機ら、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した統制派の政治的発言力がますます強くなった。1932(昭和7)年5月15日に発生した、第29代内閣総理大臣犬養毅が襲撃、殺害された五・一五事件のクーデターによって、既に政党政治は実質的に終わりを告げていたが、二・二六事件は、軍が国家権力を掌握するという日本型ファシズムを成立させる契機となった。この年、ヨーロッパでは、スペイン、フランスでファシズムの台頭に対抗する反ファシズム人民戦線政府が相次いで成立したが、スペインの陸軍軍人・政治家、フランシスコ・フランコの軍部反乱によってスペイン内戦(スペイン戦争)となり、ドイツやイタリアの援軍を受けたフランシスコ・フランコ軍が人民戦線政府を倒し、また、それに対する支援問題から、フランスの人民戦線政府も分裂状態となった。このように、1936(昭和11)年は、世界のファシズムの進出が決定的になった年と言える。