2月24日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

銘店伝説誕生の日。
香川県綾歌郡綾川町滝宮に本社を置く、生ラーメンやスープの製造販売等を手掛ける企業、株式会社アイランド食品が制定。株式会社アイランド食品で製造販売している「銘店伝説」シリーズは、人気ラーメン店の味を忠実に再現し、家庭でも気軽にその味を楽しんでもらえるチルドラーメン。外食がしづらい状況でも、お店に行った気分になれる「銘店伝説」を、より多くの人に知ってもらい、その美味しさを味わってもらうことが目的。日付は、「銘店伝説」をシリーズとして発売を開始した、2008(平成20)年2月24日から。株式会社アイランド食品は、生ラーメンの製造に特化した会社で、特に、有名なラーメン店の味を再現する「銘店伝説」に力を入れており、その再現力には自信があるという。店主の拘りを、想いを、時間をかけて忠実に再現し、店主に納得してもらったものだけを届ける、というポリシーをもって事業に取組んでいる。また、株式会社アイランド食品は、これらのチルドラーメン「銘店伝説」シリーズの他に、全国各地のお土産物としても商品を販売しており、高速道路サービスエリアや土産物店等でも、株式会社アイランド食品の商品を購入することができる。その他、株式会社アイランド食品は、業務用のスープやタレの開発・販売も行なっている。
二部式帯の日。
大阪市中央区大手通に所在する、二部式帯&着物のウェブサイト「CHAI-SHOP(チャイショップ)」が2017(平成29)年に制定。 簡単でお洒落に装える「二部式帯」のデザインの良さを、より多くの人に伝えることが目的。日付は、2月24日の「2」と「24」で、「二部式(に[2]ぶ[2]し[4]き)」と読む語呂合わせと、季節的にも、正月・成人式から卒業式・入学式の間で、和服の魅力がより一層感じられる時期であることから。「二部式帯」は、胴に帯を巻いて金具を引っ掛けるだけの簡単な装着ができ、短い時間で帯を結ぶことができる。また、見た目は普通の帯と区別が付かず、違和感なく自然に着こなすことができる。
南国忌。
大衆作家、直木三十五の1934(昭和9)年の忌日。江戸時代末期に薩摩国/大隅国薩摩藩で起こったお家騒動、お由羅騒動を描いた代表作の長編小説『南国太平記』から「南国忌」と呼ばれている。 翌年、直木三十五の友人であった、作家で文芸春秋社長の菊池寛が、純文学の「芥川龍之介賞(芥川賞)」と共に、大衆文学の分野の新人に贈る賞として、1935(昭和10)年に「直木三十五賞(直木賞)」を創設した。年2回発表される「直木三十五賞(直木賞)」を授賞する作品は、選考委員の合議によって決定される。第6回から、文芸の向上顕揚を計ることを目的として設立された財団法人日本文学振興会(2010[平成22]年には、公益財団法人移行が認定された)により運営されている。第二次世界大戦中の1945(昭和20)年から一時中断したが、1949(昭和24)年に復活した。なお、「直木三十五賞(直木賞)」はかつて、純文学の「芥川龍之介賞(芥川賞)」と同じく、無名・新人作家に対する賞であったが、現在では中堅作家が主な対象とされていて、ベテランが受賞することが多々ある。直木三十五は大阪生まれで、本名は植村宗一。ペンネームの「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものである。31歳の時に直木三十一の筆名で、第二次世界大戦前の五大新聞の1つである日刊新聞『時事新報』に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎える毎に「三十二」、「三十三」と名前を変えていた。34歳の誕生日を迎えた時、本人は「直木三十四」と書いた。しかし、編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直木三十三」を使っていた。しかし、「三十三」は字面が良くない、或いは「さんざん」と読むことができたり、「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と名を改めた。それ以降は改名することはなかった。理由は、「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌であったから、という。また、菊池寛から「もういい加減(年齢と共にペンネームを変えることは)やめろ」と忠告されたから、とも言われている。1923(大正13)年9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)以後は大阪の出版社、プラトン社(1928[昭和3]年に廃業)に勤務し、数多くの時代小説の他、恋愛小説等を多く書いた作家・劇作家で、劇団の運営等にも携わった川口松太郎と共に、娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たった。以後、直木三十五は、次第に時代小説を書くようになる。1925(大正14)年、かつて京都に存在し、数々の傑作を生み出した映画会社、マキノ・プロダクション主催のマキノ省三家に居候する。映画監督・映画製作者・脚本家で、日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いたことから、「日本映画の父」と呼ばれたマキノ省三に取入って、映画制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成し、映画製作にのめり込む。しかし、1927(昭和2)年には、マキノ省三に出資させて製作した映画群が尽く赤字に終わり、「キネマ界児戯に類す」と捨て台詞を吐いて映画界から撤退する。1929(昭和4)年、長編小説『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。長編小説『黄門廻国記』は、第二次世界大戦前から戦後の約半世紀の間、時代劇スターとして活躍した、月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。他にも、直木三十五作品を原作とした映画は50本近くある。代表作となったのは、お由羅騒動を描いた長編小説『南国太平記』である。これは、江戸文化・風俗の研究家で、その多岐に亘る研究の業績から「江戸学」の祖とも呼ばれる三田村鳶魚が調べて発表したものを元ネタにしたため、三田村鳶魚が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて、歴史小説家や時代小説家らの無知を批判した。そのため、海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子等(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。1934(昭和9)年2月24日、結核性脳膜炎により永眠する。43歳没。
等伯忌。
石川県七尾市で、長谷川等伯を顕彰する市民団体「等伯会」(大林重治会長)が制定。日付は、長谷川等伯の命日(1610[慶長15]年2月24日[旧暦])から。この日には講演会や作品観賞会等を行ない、その功績を顕彰し、遺徳を偲ぶ。長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師で、天下人豊臣秀吉や、わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる茶人で、豊臣秀吉の側近という一面もあった千利休らに重用され、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年に亘って活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団、狩野派を脅かす程であった。代表作である屏風画『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)は国宝に指定され、「美術史上日本の水墨画を自立させた」とも称される、日本水墨画の最高傑作として名高い。能登国(現在の石川県北部[能登半島])七尾(現在の石川県七尾市)で下級武士の家に生まれた長谷川等伯は、染物屋の養子となり、仏画や肖像画等を描き始める。当時の七尾は、能登国の戦国大名畠山氏の庇護の下、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師等の文化人が積極的に保護され、「小京都」と呼ばれるまでに発展し、長谷川等伯の作品には、都でもあまり見られない程、良質の顔料が使われている。1571(元亀2)年頃、長谷川等伯は上洛し、それ以降は、狩野派の様式に学びつつも、千利休らと交流を結び、数多くの中国絵画に触れる等して、独自の画風を確立する。1600年代には、大寺院からも次々と制作を依頼され、単なる町絵師ではなく、町衆として京都における有力者となる。長谷川派は、長谷川等伯を始祖とする、桃山時代から江戸時代初期にかけての漢画系の画派で、狩野派よりも色彩感覚に優れ、斬新な意匠を特徴としたが、長谷川等伯没後は優れた画家が出なかった。 
丈草忌。
江戸時代前・中期の俳人で蕉門十哲の1人、内藤丈草の1704(元禄17)年の忌日(旧暦)。内藤丈草は士分であったが、病弱の為に致仕(官職を退いて引退すること)し、異母弟へ家督を譲り、江戸時代前期の俳諧師、松尾芭蕉に入門する。松尾芭蕉は、現在の滋賀県大津市馬場にある義仲寺と、その周辺地域である湖南(現在の滋賀県南部地域)の人々を愛し、度々滞在した。内藤丈草はその義仲寺に居を移し、師の松尾芭蕉の没後約10年、師の追善に日を費やした。 
不器男忌。
夭逝した俳人、芝不器男の1930(昭和5)年の忌日。芝不器男は、俳人の吉岡禅寺洞により創刊された俳句雑誌『天の川』(1961[昭和36]年8月に廃刊)の代表作家として活躍し、俳句雑誌『ホトトギス』でも、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子、高野素十の「ホトトギスの四S」以降の新人として注目されたが、句歴約4年、26歳の若さで没する。句風は古語を交えて、近代的な抒情味の中に幽艶を感じさせるものとされる。