国際母語の日(International Mother Language Day) 。
国際連合教育科学文化機関(UNESCO)が、1999(平成11)年11月17日に制定した国際デーの1つ。1952(昭和27)年2月21日、当時はパキスタンの一部(東パキスタン)であったバングラデシュで、ベンガル語を公用語として認めるよう求めるデモ隊に警官隊が発砲し、4名の死者が出た。南アジアに位置し、北と東西の三方はインド、南東部はミャンマーと国境を接するバングラデシュでは、独立運動の中の重要な事件の1つとして、この日を「言語殉教者の日」とした。言語と文化の多様性、多言語の使用、そして、あらゆる母語の尊重の推進を目的とした国際母語の日は、この日に因んで制定されたものである。世界の共通語としての英語の圧倒的な隆盛の一方で、消滅の危機に晒される言語が後を絶たない。このような状況下、国際母語の日の意義は大きい。宗主国イギリスがインドを去る1947(昭和22)年、かつての植民地は、宗教を基に、インドとパキスタンに分けられた。イスラム教を基に成立したパキスタンは、西パキスタンと東パキスタン(現在のバングラデシュ)という、地理的にも言語的にも大きく離れた2つの地域から構成されることとなった。人口は東パキスタンが多かったものの、政治の中枢は西パキスタンにあった。東パキスタン(現在のバングラデシュ)の人々は、多くがベンガル語を母語とし、西パキスタンではパンジャーブ語、パシュトー語、シンド語等が話され、一方で政府中枢では、インド・イスラム王朝の歴史的中心地デリーの言語であるウルドゥー語が用いられていた。これらの言語は、いずれもインド・ヨーロッパ語族のインド語派に属してはいるが、言語自体はかなりの隔たりがある。政府中枢の推進するウルドゥー語に対する反発は、西パキスタンでもあったが、元々ベンガル語を主流とし、ウルドゥー語とより疎遠であった(現在のバングラデシュ)では、反発はさらに強かった。パキスタン政府は、ウルドゥー語を全パキスタンの唯一の国語として掲げ、メディアや学校等でウルドゥー語のみを用いさせようとした。これに対し、現在のバングラデシュの首都ダッカにある公立大学、ダッカ大学の学生がすぐさま抵抗を開始した。1952(昭和27)年2月21日、学生達は抗議活動を宣言したが、政府は集会を禁じることで、抗議活動の封じ込めに掛かった。集会は反政府行動と見做し、射殺する、とした政府に対し、学生達は命より言語(ベンガル語)を選び、敢然と行動し、そして死んでいった。学生達の倒れたダッカ大学構内の地に、ショヒド・ミナール(言語に殉じた若者達の碑)が建てられた。碑は、悲しみの母と倒れた息子達を表わしている。
漱石の日。
1911(明治44)年2月21日、文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)が、作家の夏目漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたのに対し、夏目漱石が「自分に肩書きは必要ない」として、博士号を辞退する旨を書いた手紙を、文部省専門学部局長の福原鐐二郎に送ったことに由来する。日本を代表する文豪の1人である作家・評論家・英文学者、夏目漱石は、歳を重ねる毎に病気勝ちとなり、肺結核、トラホーム(トラコーマ等とも呼ばれる、伝染性の急性、及び慢性角結膜炎)、神経衰弱、痔、糖尿病、等の他、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。夏目漱石最後の随筆となった『硝子戸の中』のように、直接自身の病気に言及した作品以外にも、処女小説で代表作の1つともされている長編小説『吾輩は猫である』の主人公、雄猫の「吾輩」(人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており、哲学的な思索にふけったりし、人間の内心を読むこともできる)の飼い主、苦沙弥先生が胃弱であったり、作者病没のため188回までで新聞連載が未完となった長編小説『明暗』が、痔の診察の場面で始まっていたりする等、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」等、病気を題材にした句も多数ある。当時、入院していた夏目漱石は、事前に本人の意思も確認せずに、強引に学位授与を決めてしまった文部省の一方的なやり方に激怒した。学位授与を意味する「学位記」は、その後も文部省と夏目漱石の間で行き来を繰返した。結局、話は平行線のままうやむやとなり、夏目漱石は「ただの夏目なにがし」で暮らして行くことになる。文部大臣と夏目漱石との間で板挟みになった福原鐐二郎は、1884(明治17)年、18歳の夏目漱石が入学した大学予備門(現在の東京大学の前身の1つ)で、夏目漱石の同級生であった。国内行政の大半を担った内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)から、教育、文化、学術等を担当していた文部省に転じた福原鐐二郎は、1899(明治32)年から1901(明治34)年まで、教育行政法の研究のためヨーロッパに留学しており、文部省退官後は、貴族院(帝国議会の上院)議員に勅選され、旧宮内省(現在の宮内庁の前身)の外局(特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織)として設置された国立学校、学習院の第14代院長等を歴任した。夏目漱石は、酒は飲めなかったが、胃弱であるにも係わらず、ビーフステーキや中華料理等の脂っこい食事を好んだ。大の甘党で、療養中には当時貴重品であったアイスクリームを欲しがり、遂には、家族に無断で業務用アイスクリーム製造機を取寄せ、妻と大喧嘩になったこともある。当時、出回り始めたジャムもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められる程であったという。胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹付ける音にそっくりであったことから、破障子なる落款(落成款識[らくせいかんし]の略語で、書画を作成した際に製作時や記名 識語[揮毫{毛筆で言葉を書くこと}の場所、状況、動機等]、詩文等を書付けたもの、また、その行為をいう他、その文を款記といい、その時捺す印章を落款印といい、さらには慣習上、署名として押捺された印影、又は署名に代えて押捺した印影を指すことも多く、署名用の印そのものを落款と称することもある)を作り、使用していたことがある。また、夏目漱石は、天然痘(天然痘ウイルスを病原体とする感染症の1つで、非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱[皮膚疾患等で出現する発疹の1つで、水疱の内容物が壊死した、白血球を主とする膿の集合体で、粘性がかなり強いものをいう]を生ずる)に罹っており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし、当時は、写真家が修正を加えることがよく行なわれており、現在残っている写真には、夏目漱石自身が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。なお、夏目漱石の1916(大正5)年の忌日、12月9日は、「漱石忌」とされている。
泰忌。
高浜虚子(明治・昭和期の俳人・作家)を中心とする「ホトトギス派」の俳人、上野泰の1973(昭和48)年の忌日。上野泰は、高浜虚子の六女と結婚し、第二次世界大戦中、長野県北佐久郡小諸町(現在の長野県小諸市)に疎開中であった高浜虚子から俳句を学んだ。高浜虚子から「泰の句に接すると世の中の角度が変わって現れてくる」と評されている。「ホトトギス派」は五七五の定型調や季題といった伝統を守り、客観写生を深めることを主張し、大正期から昭和初期には俳壇の主流となった。