2月20日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1547年 - イングランド王エドワード6世が戴冠(国王や皇帝が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位・皇位への就任を宣明する儀式を行なうこと)。父、ヘンリー8世の死去により、9歳で即位したエドワード6世は、先天性梅毒により、幼い頃から病弱で、エドワード6世の母方の伯父であるエドワード・シーモアが護国卿(王権に匹敵する最高統治権を与えられた官職)に就任し、実権を掌握する。しかし、1549年にエドワード・シーモアは、イングランド東部で発生した農民の反乱を鎮圧したジョン・ダドリーとの権力闘争に敗れて失脚し、1552年に大逆罪(国王に対する重大な背信行為を罰する罪)で処刑される。ジョン・ダドリーは、国政を主導する立場となり、財政改革やプロテスタント政策を推進する。また、エドワード6世の病状から、その死期が近いと悟ったジョン・ダドリーは、エドワード6世亡き後について画策し、自らの六男ギルフォード・ダドリーを、エドワード6世の従姉フランセス・ブランドンの娘、ジェーン・グレイと結婚させ、本来は継承順位が低い、ジェーン・グレイを後継として指名する遺言を、死の床にあるエドワード6世に迫る。結局、エドワード6世はそれを了承し、15歳で死亡する。エドワード6世死去の4日後、ジョン・ダドリーは、ジェーン・グレイが女王となると宣言するが、ジョン・ダドリー一派の目論見を危険視した政府は、急遽王女メアリー(エドワード6世の姉に当たる)を呼戻す。王女メアリーの下には支持者が続々と集結し、民衆蜂起となり、これを自ら鎮圧しようと兵を向けたジョン・ダドリーは、逆に惨敗を喫してしまう。王女メアリーがメアリー1世として即位し、「イングランドで初めて広く国民に支持された女王」となる。捕らえられたジョン・ダドリーは、1553年に大逆罪で処刑されている。 
1564年 - 下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東辺、東京都東辺)の国府台城(現在の千葉県市川市に所在した城)一帯で、現在の神奈川県小田原市に所在した小田原城を本拠とする後北条氏(小田原北条氏)と、安房国(現在の千葉県南部)を掌握、房総半島に勢力を拡大し、上総国(現在の千葉県中部)から下総の一部に至るまで勢力を張った、安房里見氏を始めとする房総諸将との間で戦われた合戦、第二次国府台合戦で、後北条氏が、安房里見氏を破る。北条軍は一気に上総国にまで進出するが、苦境に立った里見軍は、却って積極的な軍事行動によって北条軍を牽制し、両氏の戦況は再び膠着する。後北条氏は、局所的な戦闘に於いては敗退することもあったが、着実に支配を広め、最大時には関八州(相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸の関東の8ヶ国の称で、現在の関東地方に当たる)で約240万石に及ぶ一大版図を支配するが、安房里見氏とは主導的な同盟を結んでいる。後北条氏の代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用している。これは、「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言である。戦国大名の嚆矢(ものごとの始まり)とされ、後北条氏の祖である北条早雲の代に扇谷上杉家(室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家の1つで、南関東に勢力を扶植した)配下の幕僚であった室町時代後期の武将、太田道灌(江戸城を築城したが有名で、武将としても学者としても一流、という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い)の発案という足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて、兵農分離を逸早く志向する。冑類の生産は全国有数の規模で、鉄砲の導入にも積極的であったという。後北条氏は、小田原城を中心とした本城支城体制を確立し、各城には位が付けられ、城主には勲功によって昇格や降格、配置換えを行なうという近代的な制度である。最盛期の後北条氏には、10万の軍勢の動員をも可能とした戦力があり、この軍事上の優越と共に、東北の伊達政宗、東海の徳川家康、中部の織田信雄、四国の長宗我部元親等との外交上の連携をもって、後北条氏は関東自立を目指している。後北条氏はまた、内政に優れた大名として知られている。北条早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制を採用し、代替わりの際には大掛かりな検地を行なうことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが、在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また、飢饉の際には減税を施す、といった公正な民政により、安定した領国経営を実現する。家督を継承するに当たっては、正室を重んじることにより、廃嫡騒動や、それに起因する家臣団の派閥化といった、近隣諸国では頻繁に見られる内部抗争や離反を防ぐことに成功。さらに、その結果として、宗家の殆どが同母兄弟となり、その元に構成された一門と家臣団には強い絆が伴なっている。東国において、古河足利氏、両上杉氏(扇谷上杉氏と、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した山内上杉氏)、佐竹氏等、血統を誇って同族間での相克を繰返し、国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や、虎の印判による文書官製等、創業時の室町幕府系家臣団由来による制度の整った官僚制をもって力を蓄えている。羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行なわれた全国規模の戦役、小牧・長久手の戦いの後、羽柴秀吉が四国征伐を行ない、豊臣を賜姓し、さらに、九州征伐で電撃的に西日本を統一した豊臣氏に対して、北条家も、他の大大名と同様に、大名家の家格を維持すること、領民に手を出さないこと(民政不介入)を条件に恭順の意思を示す。しかし、1589年に上野国(現在の群馬県)名胡桃において、予てより真田家との間にあった領土争いが暴発する。北条家家臣の猪俣邦憲が、独断で真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領してしまう(名胡桃城事件)。この名胡桃城事件は、豊臣秀吉が大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとして、1590年に豊臣秀吉の小田原征伐を招き、これによって、戦国大名家としての後北条氏は滅亡することとなる。
1582年 - 天正遣欧少年使節が長崎港を出港。天正遣欧少年使節は、九州のキリシタン大名(キリスト教に入信、洗礼を受けた大名)、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された、4名の少年を中心とした使節団である。キリスト教、カトリック教会の男子修道会であるイエズス会の会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案したもので、1590年に帰国する。使節団によって、ヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、天正遣欧少年使節の持帰ったグーテンベルク印刷機(ドイツ出身の金属加工職人・印刷業者、ヨハネス・グーテンベルクが発明した印刷機)によって、日本語書物の活版印刷(活字を組合わせて作った版、活版で印刷すること)が初めて行なわれたが、これはキリシタン版と呼ばれる。主席正使には、 大友宗麟の名代で大友宗麟の血縁の伊東マンショ、正使に大村純忠の名代で、大村純忠の甥で有馬晴信の従兄弟、千々石ミゲル、副使には中浦ジュリアンと原マルティノが選ばれたが、派遣当時の年齢は13歳から14歳であったという。使節団一行は、1584年にポルトガルの首都リスボンに到着し、スペインやイタリア等を訪問して、ローマで第226代ローマ教皇グレゴリウス13世(グレゴリオ暦と呼ばれる新暦を採用したことでも有名)に謁見。ローマ市民権を与えられる。使節団一行は、1590年に帰国した後、翌1590年には、豊臣秀吉を前に、西洋音楽(フランスの作曲家、ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する。1587年にキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書、バテレン追放令を発令していた豊臣秀吉であるが、この頃には、キリスト教そのものへの強硬な禁教は行なっていない。
1862年 - 南北戦争: ヴァルヴァードの戦い。