2月20日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

歌舞伎の日。
1607(慶長12)年2月20日(旧暦)、出雲阿国が江戸城において、将軍徳川家康や諸大名の前で、初めて歌舞伎踊りを披露した、とされることに因む。出雲阿国は、安土桃山時代の女性芸能者である。ややこ踊り(中世末期から近世初頭に行なわれた少女による小歌踊り)を基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎ができ上がっている。歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語に当たる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」と言われている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特に、そうした者達のことを「かぶき者」とも言った。そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取入れた独特な「かぶき踊り」が、慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。「かぶき踊り」は主に、女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」等の表記が用いられたが、江戸時代を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。現在用いられる「歌舞伎」の表記も、江戸時代に使われないことはなかったが、一般化したのは近代になってからである。歌舞伎は2009(平成21)年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の無形文化遺産に登録された。なお、1953(昭和28)年2月1日、日本放送協会(NHK)テレビジョンの放送開始により、日本のテレビ放送が開始されたが、同日同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのは歌舞伎番組であった。ただ、現在では安土桃山時代の女性芸能者であるお国のことを「出雲阿国」と呼ぶが、お国と同時代の文献にはこの名称はなく、また、出雲の出身であるかどうかにも確証はない。お国が踊ったのは、「かぶき者」が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった。 ここでいう「茶屋」とは、いわゆる色茶屋のことで、「茶屋の女」とは、そこで客を取る遊女まがいの女のことである。 かぶき踊りが流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったらしい。その後、かぶき踊りは遊女屋で取入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、僅か10年余りで全国に広まった。今日でも歌舞伎の重要要素の1つである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである。他にも、少年の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎)が行なわれていたが、遊女や若衆を巡って武士同士の喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった為、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は江戸幕府により禁止される。歌舞伎の舞台が発展し始めるのは、18世紀初め頃からである。それまで晴天下で行なわれていた歌舞伎の舞台に、屋根が付けられて全蓋式になる。これにより、後年盛んになる、宙乗りや暗闇の演出等が可能になった。また、花道(舞台から客席を縦断するように同じ高さで張出したもので、舞台の延長としてここでも演技が行なわれる)が演技する場所として使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた。廻り舞台が工夫され、現在のような地下で回す形にする等、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行なわれた。こうして歌舞伎は、花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を獲得し、迫り(舞台の床の一部をくり抜き、そこに昇降装置を施した舞台機構)によって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。
尿もれ克服の日。 
2月20日の「2」と「20」で、「尿(にょう[2])も(too = 2)れ(0)」の語呂合わせから、大阪市西区立売堀に事務局を置く、排尿障害の病気を克服した元患者の女性らで作る団体「ひまわり会」が、2005(平成17)年に制定した日。尿もれに関する認識を高めてもらい、尿もれで悩んでいる女性がゼロになることを目指す。尿もれで悩んでいる人は、健康な女性の4人に1人と言われ、尿もれの潜在患者が約600万名以上いるとも言われている。悩んでいる人が多い病気である一方、病院で受診する人は1割にも満たないというのが現状である。尿もれは、咳やくしゃみをした時や体を動かした拍子に漏れる「腹圧性尿失禁」と、したいと思った時に我慢できずに漏れてしまう「切迫性尿失禁」、そして両方が合わさった「混合型尿失禁」の3つに分かれる。その内、約6割以上を占めるのが「腹圧性尿失禁」で、骨盤底の筋肉を鍛える体操、尿道を吊下げるTVT手術、治療薬等により改善するという。  
夫婦円満の日。 
誰が淹れても濃くてまろやかなおいしいお茶「こいまろ茶」を飲んで、夫婦円満に暮らしてもらいたい、との思いから、京都府綴喜郡宇治田原町郷之口に所在する、「こいまろ茶」を販売する企業、株式会社宇治田原製茶場直売部が制定。日付は、2月20日の「2」と「20」で、「夫婦(ふう[2]ふ[2])円満(0)」の語呂合わせから。株式会社宇治田原製茶場は、1926(昭和元)年の創業以来、「日本緑茶発祥の地」として有名な京都府南部に所在する町、宇治田原町で日本茶の製造・販売を行なっている。「一杯のお茶がもたらす癒し」を大切にし、熟練の茶師が吟味を重ねた、「本当に美味しい日本茶」を丁寧に丹精込めて作り上げている。茶師が幾度も幾度も試作を重ね、約3年もの歳月を経て辿り着いた「こいまろ茶」は、玉露、若蒸し煎茶、深蒸し煎茶の3種の、品質の良い「一番茶葉」を使用したお茶で、9年連続でモンドセレクション(ベルギー連邦公共サービスより指導、及び監査を受け、食品、飲料、化粧品、ダイエット、健康を中心とした製品の技術的水準を審査するベルギーの民間団体、モンドセレクションより与えられる認証)金賞を受賞した。 
多喜二忌。
個人主義的な文学を否定し、社会主義思想や共産主義思想と結び付いた文学であるプロレタリア文学の代表的な作家、小林多喜二の1933(昭和18)年の命日。小林多喜二は、特別高等警察(国事警察として発足した高等警察から分離し、国体護持のために無政府主義者、共産主義者、社会主義者、及び国家の存在を否認する者を査察・内偵し、取締ることを目的とした政治警察)の拷問により警察署内で死亡した。小林多喜二は、1929(昭和4)年に発表した短編小説『蟹工船』で一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めたが、同時に警察(特に、特別高等警察)からも要注意人物としてマークされ始める。1932(昭和7)年春からは地下活動に入るが、小林多喜二は明るい性格で、とても話し好きな人物であり、また、母思いでもあって、地下に潜入後も原稿料は母親に送り、死の間際にも「母親にだけは知らせてくれ」と懇願したという。およそ80年の時の流れを越え、2008(平成20)年には、若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延等の社会経済的背景の下に『蟹工船』が再評価されている。
鳴雪忌、老梅忌。
俳人、内藤鳴雪の1926(大正15)年の忌日。別号の老梅居から「老梅忌」とも呼ばれる。俳号の「鳴雪」は、「何事も成行きに任す」の当て字とされる。内藤鳴雪は、伊予国松山藩藩士から明治期に文部官吏となり、後に俳人として活動した。1892(明治25)年には、21歳年下であった俳人・歌人の正岡子規を俳句の師としている。俳風は、人柄そのままに恬淡・洒脱であった。