2月19日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

天地の日。 
1473(文明5)年2月19日、教会では律修司祭(カトリック教会における聖職者の位階で、特に大聖堂に附属し、その運営のある側面で責任を負う司祭職)であり、知事、長官、法学者、占星術師で、医者でもあった、ポーランドの天文学者で、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスが誕生したことから、天文愛好家等が制定した日。地動説とは、宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星と共に太陽の周りを自転しながら公転している、という学説のことである。宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)に対義する学説であり、ニコラウス・コペルニクスが唱えた。但し、宇宙の中心には地球ではなく太陽が位置している、という太陽中心説を最初に唱えたのは、古代ギリシャの文学者・数学者で、紀元前3世紀に活躍したアリスタルコスであった。アリスタルコスの天文学の学説は、広く受入れられることはなく、天動説(地球中心説)が主流となっていたが、約2,000年後にニコラウス・コペルニクスが再び、太陽中心説(地動説)を唱え、発展することとなった。天体の運動を明快に説明するニコラウス・コペルニクスの地動説は、次第にその後の天文学者に影響を与え、イギリスの物理学者・数学者・自然哲学者、アイザック・ニュートンが、実験と微積分法による軌道計算等の数学的理論化を進め、1687(貞享4)年にその学説を公表した。このニュートン力学は「万有引力の法則」として知られ、惑星運動も太陽の引力によるものとして説明され、このことから最終的に、地動説は疑いのない真理とされるに至った。因みに、全世界のカトリック教会を統率する組織であるローマ教皇庁が正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992(平成4)年のことである。ニコラウス・コペルニクスは、体系の斬新さに批判が出ることを恐れ、約25年以上推敲を続けて発表を躊躇った。発表も死の直前であった。発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった。天文学者達がこのような行動を採ったのは、迫害を恐れたためである。キリスト教、ユダヤ教の教典、正典であり、イスラム教でも教典とされている聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能と主張するのは、神の偉大さを証明できるので、問題がないが、大地が動いていると主張するのは、神の偉大さを否定することになると考えたとされる。キリスト教世界における教会体制上の革新運動である宗教改革を提唱したドイツ人司祭で神学者のマルティン・ルターは、ニコラウス・コペルニクスの説について、「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べ、地動説を否定した。結果、プロテスタント(新教)でも、地動説はアイザック・ニュートンの登場まで迫害の対象となる。但し、「科学者」と「宗教家」の闘争というモデルは、現在では否定されている。また、カトリック教会(旧教)は太陽が教皇の象徴と考えていたので、太陽が中心にあるという考えについては問題視しなかった、とされる。地動説は、単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を、科学革命の時代とも言うのは、それ程までに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。「物事の見方が180度変わってしまうような、常識をひっくり返す(既に証明されている)新説」を「コペルニクス的転回」等と呼ぶのは、その名残である。さらに、「革命(Revolution)」という言葉も、元はこの科学革命を指す言葉であり、後に政治用語にも転用されたのである。因みに、ニコラウス・コペルニクスは、経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣の方が流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる(「悪貨は良貨を駆逐する」という内容の要約、「グレシャムの法則」) ことに最初に気付いた人物の1人としても知られる。ニコラウス・コペルニクスは、ポーランドで最も有名な偉人の1人であり、ポーランドには、ニコラウス・コペルニクスに因む事物が多く存在する。ニコラウス・コペルニクスの生家は、ポーランド中北部に位置する工業都市、トルンの旧市街に現在も残っており、「コペルニクス博物館」として公開され ている 1945(昭和20)年には、ニコラウス・コペルニクスの生地であるトルンに大学が設置されたが、大学名は、その名を取り「ニコラウス・コペルニクス大学」とされた。2005(平成17)年、ポーランドの首都ワルシャワに建てられたポーランド最大の科学館は、「コペルニクス科学センター」と名付けられている。1972(昭和47)年、ニコラウス・コペルニクス生誕500周年を祝うため、ポーランドの現代音楽作曲家、ヘンリク・グレツキにより、合唱と管弦楽のための大規模な形式の交響曲、交響曲第2番『コペルニクス党』が作曲された。この曲は、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市のコシチュシュコ財団(1923年[大正12]に設立された、タデウシュ・コシチュシュコ[ポーランドの陸軍軍人・政治家で、アメリカ独立戦争にも義勇兵として参加しており、一時はロシア軍を破ったこと等から、ポーランドでは国民的英雄となっている]の名に因んだ非営利法人で、ポーランドとアメリカの知的、芸術的交流の促進を目的としている)から委嘱されたもので、ヘンリク・グレツキにとっては、祖国ポーランド以外の聴衆に、自らの芸術を問うチャンスとなった。 
瓢々忌。
作家、尾崎士郎の1964(昭和39)年の忌日。代表作である自伝的長編小説『人生劇場』の主人公、青成瓢吉から瓢々忌と呼ばれる。愛知県幡豆郡横須賀村(現在の愛知県西尾市吉良町北部)生まれ(1910[明治43]年)の尾崎士郎は、早稲田大学政治科在学中に社会主義運動に係わり、大学を中退して、国家本来の機能として支配・統制が行なわれるとする、「国家社会主義」に身を投じる。1921(大正10)年、日刊新聞『時事新報』(著述家・啓蒙思想家・教育者の福沢諭吉により創刊され、第二次世界大戦前には、五大新聞の1つに数えられるが、1936[昭和11]年に廃刊となり、東京日日新聞[日刊新聞『毎日新聞』の東日本地区の旧題号で、現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身に当たる]に合併される)の懸賞小説で、ジャーナリスト・思想家らが第122代天皇、明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件、大逆事件を取材した短編小説『獄中より』が第2席で入選し、以後、本格的に作家として身を立てるようになる。1933(昭和8)年から、日刊新聞『都新聞』(現在の東京新聞の前身の1つ)に『人生劇場』を連載し、文芸懇話会賞(官僚と作家との意見交換の場として組織された文芸懇話会が贈呈した賞)を受賞。これが大ベストセラーとなって、以後約20年以上も執筆し続ける大長編となる。また、長編小説『石田三成』『真田幸村』『篝火』等の歴史小説も書き、相撲にも詳しく、相撲関係の著作もあり、長編小説『雷電』も書いている他、横綱審議委員を務めた。さらに、酒豪で著名でもあった。 
アンドロメダ忌。
政治評論家・思想評論家・作家、埴谷雄高の1997(平成9)年の忌日。この日には、有志により「アンドロメダ忌」という記念会が催される。「アンドロメダ忌」の名の由来は、埴谷雄高が宇宙に強い関心を持ち、寝る前にオペラグラスでアンドロメダ銀河(地球から約250万光年の距離に位置する、肉眼で見える最も遠い天体の1つで、直径は約22万光年から約26万光年とされる)を眺め、思いを巡らせていたことに因み、本人がその名を希望したとされる。埴谷雄高は、台湾北西部にある新竹で生まれ、幼少の頃から身体が弱く、常に死を身近に感じていたという。子ども心に台湾において、「支配者としての日本人」を強く意識し、罪悪感を覚えていた。日本共産党に入党し、主に地下活動(農民団体「全農全会派」のオルグ活動)に従事し、思想犯取締まりのため、1932(昭和7)年に逮捕された。出獄後は経済雑誌の編集に携わり、第二次世界大戦敗戦を迎えた。代表作は、存在の秘密や大宇宙について語り尽くさんとし、第1章が『近代文学』創刊号(1945[昭和20]年12月30日付)に掲載された大長篇小説『死靈(しれい)』で、全12章予定で未完作となったが、幾度かの空白を挟み書き続け、死の直前まで第9章までを書き継いだ。ほぼ全編を、物語でなく観念的議論によって進行する、世界文学史においても未曾有の形而上学(「存在の根本原理」を追究する哲学)的思弁小説であり、この一作で比類ない評価を受けた。  

ワシントン誕生日(Washington's Birthday)/大統領の日(Presidents' Day) 。
2月第3月曜日。アメリカ合衆国の連邦祝日。1732(享保17)年2月22日生まれのアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンと、1809(文化6)年2月12日生まれのアメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンという、2人の大統領の誕生日を合わせたもの。この連邦祝日は、正式な名称を「ワシントン誕生日」といい、2月の第3月曜日に祝う。しかし、一般には、ジョージ・ワシントンとエイブラハム・リンカーンの両方の誕生日を祝う習慣となっている。なお、祝日の日付は、2月15日から2月21日までのいずれかとなり、ジョージ・ワシントンの実際の誕生日と重なることはない。非公式に「大統領の日(Presidents’ Day)」と呼ばれ、2月12日生まれのエイブラハム・リンカーンを共に記念する日とされる。但し、幾つかの州では、「ワシントン誕生日」とは別に、2月12日を「リンカーン誕生日(Lincoln's Birthday)」として州の祝日にしている。1880(明治13)年、ジョージ・ワシントンの実際の誕生日である2月22日として制定された。1971(昭和46)年の「月曜休日統一法」(アメリカ合衆国法典で規定した祝日を月曜日へ移動させるための、アメリカ合衆国連邦政府の公式な移動祝日を設定した法律) により、同年からは、現在のように2月第3月曜日となった(日本でいうハッピーマンデー制度と同じ)。この法律の初期の草案は、祝日を「大統領の誕生日」と改名して、エイブラハム・リンカーンを共に記念する日としていたが、採用されなかった。ジョージ・ワシントンは、アメリカ合衆国建国の父として、首都や州名等にその名を残しているアメリカ合衆国憲法下で最初のアメリカ合衆国大統領である。エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国最初の共和党所属の大統領である。そして、民主主義の基礎を主張したことや、アメリカ合衆国南部における奴隷解放、南北戦争(アメリカ合衆国と、奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州の内、11州が合衆国を脱退して結成したアメリカ連合国との間で行なわれた戦争)による国家分裂の危機を乗越えた政治的業績、リーダーシップ等が、歴史的に高く評価され、「最も偉大な大統領」の1人に挙げられることもある。