2月18日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1229年 - 第6回十字軍: 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とアイユーブ朝(12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメン等の地域を支配したイスラーム王朝)のスルタン(君主)、アル・カーミルが、10年間の休戦と、十字軍側へのエルサレム(現在のイスラエル東部に所在)返還で合意する。 
1513年 - イタリアで、銀行家・政治家として台頭した一族、メディチ家の要人を殺害しようとした陰謀(ボスコリ事件)が発覚し、軍人・外交官のニッコロ・マキャヴェッリ(後に政治思想家)が連坐して捕らえられる。 
1559年 - 少弐冬尚が、元々は家臣の家柄であった肥前国(現在の佐賀県と長崎県の九州本土部分)の戦国大名、龍造寺隆信に破れて自害し、鎌倉時代から続いていた北九州地方の守護大名・戦国大名、少弐氏が滅亡する。
1587年 - 元スコットランド女王メアリーが、イングランド女王エリザベス1世の暗殺計画(バビントン事件)に加担したことにより処刑される。
1745年 - マタラム王国(東南アジア南部に位置するインドネシア、ジャワ島中部のジョグジャカルタ地方に栄えた王国)の王都がソロに移され、スラカルタ(現在のインドネシア中部、ジャワ島の中部に所在)に改称される。スラカルタは、現在でもジャワ舞踏等、ジャワの伝統文化の中心地となっている。 
1772年 - 遠江国相良藩第6代藩主、田沼意次が老中に就任する。田沼意次の父、田沼意行は紀伊国/伊勢国紀州藩の足軽であったが、部屋住み時代の徳川吉宗(紀州藩第2代藩主徳川光貞の四男で、江戸幕府初代将軍徳川家康の曾孫に当たる)の側近に登用され、徳川吉宗が第8代将軍となると、幕臣となって、小身旗本に取立てられる。徳川吉宗は、将軍就任に当たって紀州系の家臣を多数引連れて幕臣とし、特に、勘定方と将軍、及び子ども達の側近に配置して幕政を掌握したが、田沼意次は、紀州系幕臣の第二世代目に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、1735年に父の遺跡600石を継いでいる。1745年、徳川家重の将軍就任に伴なって本丸に仕え、1758年には1万石の大名となる。徳川家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、前後10回の加増で、僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、将軍の側近であり、将軍の命令を老中らに伝える役目を担った側用人から、政務全般を担当する老中になった初めての人物となる。この頃より、老中首座の松平武元等、田沼意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手掛け、田沼時代と呼ばれる権勢を握り、悪化する幕府の財政赤字を食止めるべく、重商主義政策を採る。内容は、販売権の独占等の特権を認められた株仲間の結成、銅座等の専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地(現在の北海道を中心とした地域)の開発計画、俵物(長崎貿易の輸出海産物の内、煎海鼠[いりなまこ]、乾鮑[ほしあわび]、鱶鰭[ふかひれ]の三品)等の専売による外国との貿易の拡大、等の政策を実施し、その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなったが、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行するようになる。また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだため、農村の荒廃が生じる。外国との貿易を黒字化させて、国内の金保有量を高め、さらには、北方においてロシア帝国との貿易も行なおうとしていた他、本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家として知られる平賀源内等と親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別に捉われない、実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が、身分制度や、儒学・神道以外の全てを排し、道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとする朱子学を重視する、保守的な幕府閣僚の反発を買い、1784年に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺されたことを契機とし、田沼意次の権勢が衰え始める。田沼意次は、1786年に第10代将軍徳川家治が死去すると失脚し、蟄居を命じられ、孫の田沼意明が陸奥国下村藩(陸奥国信夫郡下村[現在の福島市佐倉下]に陣屋を構え、周辺を支配した藩)1万石に減転封の上で、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許されている。
1800年 - フランス革命戦争: 地中海中央の洋上に位置するマルタ島周辺で行なわれたマルタ護送船団の海戦で、イギリスが勝利する。
1874年 - 佐賀の乱: 江藤新平ら反乱軍が、佐賀城の佐賀県庁に籠もる佐賀県権令(県の長官である県令に次ぐ官職)岩村高俊の部隊と戦闘し、政府軍が敗走する。 
1885年 - アメリカの作家、マーク・トウェインの長編小説『ハックルベリー・フィンの冒険』が刊行される。『ハックルベリー・フィンの冒険』は、トム・ソーヤー(マーク・トウェインの他の三篇の作品の主人公)の親友であるハックルベリー(ハック)・フィンによって語られる、方言、或いは話し言葉で書かれた、最初の小説の1つである。出版以来、『ハックルベリー・フィンの冒険』は、真摯、かつ時には痛烈な確固たる姿勢によって、若い読者の間で人気を博し、比較的毒のない、同じマーク・トウェイン作の長編小説『トム・ソーヤーの冒険』(この作品は、いかなる特定の社会的メッセージも含んでいなかった)の続編として捉えられているにも係わらず、真面目な文芸批評家の研究対象でもあり続けている。
1908年 - 日本からの移民を制限する「日米紳士協定」が締結され、アメリカ合衆国への移民は、日本政府によって自主的制限がされることとなる。
1911年 - インドで、世界で初めて飛行機で郵便物が運ばれる。 
1913年 - 弁護士・政治家のレイモン・ポアンカレが、フランス共和国(第三共和政)の大統領に就任する。 
1930年 - アメリカ合衆国南西部、アリゾナ州北部のフラッグスタッフにあるローウェル天文台の職員、クライド・トンボーが冥王星を発見する。 
1932年 - 満州(現在の中国東北部に所在)の要人による東北行政委員会が、満州の中国国民政府からの独立を宣言。3月1日に満州国を建国する。元首(満州国執政、後に満州国皇帝)には、中国清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が就く。満州国は建国以降、日本、特に関東軍と南満州鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられており、当時の国際連盟加盟国の多くは、満州地域は、法的には中華民国の主権下にあるべきとしたが、このことが1933年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。なお、「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め、一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる。  
1935年 - 天皇機関説事件: 貴族院(大日本帝国憲法下の帝国議会の上院)本会議で、元陸軍軍人の菊池武夫議員が、法学者の勅選議員(学識者等から選ばれた議員)、美濃部達吉の天皇機関説を非難。天皇機関説は、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として統治権を行使すると説いたものである。
1937年 - 宮崎県延岡市役所で火災が発生。北隣にあった宮崎県立図書館にも延焼し、双方が全焼する。
1938年 - 作家、石川達三(芥川龍之介賞[純文学の新人に与えられる文学賞で、通称は芥川賞]の第1回受賞者)著の南京(現在の中国東部に所在)従軍記でもある長編小説『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が、「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」等として、発禁処分となる。石川達三と編集者雨宮庸蔵、発行人牧野武夫が検挙される。