2月16日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0901年 - 司法・行政・立法を司る最高国家機関である太政官の職の1つで、政務を司った右大臣から、大宰員外帥(九州の筑前国[現在の福岡県西部]に設置された地方行政機関、大宰府の長官である大宰帥の権官[正規の員数を越えて任命する官職])に左遷(昔、中国で、右を尊び左を卑しんだところから、低い地位・官職に落とすこと)された菅原道真が、大宰府へ向けて出発する。菅原道真が京の都を去る時に詠んだ歌、「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名で、その梅が、京の都から一晩にして、菅原道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという、「飛梅伝説」も有名である。伝説の語るところによれば、菅原道真を慕う庭木達の内、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの、悲しみのあまり、みるみる内に葉を落とし、ついには枯れてしまったという。しかし、梅と松は、菅原道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛ぶ。ところが、松は途中で力尽きて、摂津国八部郡板宿(現在の兵庫県神戸市須磨区板宿町)近くの後世「飛松岡」と呼び習わされる丘に降立ち、この地に根を下ろす(これを飛松伝説と言う)。一方、1人残った梅だけは、見事その日一夜の内に、主人の暮らす大宰府まで飛んで行き、その地に降立ったという。飛梅伝説の現実的経緯としては、一説に、菅原道真に仕えて大宰府にも同行した菅原道真の弟子、味酒保行が株分けの苗木を植えたものとも、菅原道真を慕った伊勢国度会郡(現在の三重県度会郡)の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際、旧邸から密かに持出した苗木を献じたものとも言われている。人形浄瑠璃、及び歌舞伎の演目の1つ、『菅原伝授手習鑑』の主題ともなっている伝承である。『菅原伝授手習鑑』は、1746年8月、竹本座(浄瑠璃の一種である義太夫節浄瑠璃の創始者、竹本義太夫が大坂道頓堀[現在の大阪市中央区道頓堀に所在]に創立した義太夫節人形浄瑠璃の代表的劇場)で初演された、初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作による作品で、平安時代の菅原道真の失脚事件を中心に、菅原道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では、四段目切が『寺子屋』の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く、歌舞伎の代表的な演目となっている。菅原道真は左遷後、大宰府浄妙院(現在は、福岡県太宰府市朱雀に所在する、太宰府天満宮境内飛地にある神社、榎社となっている)で謹慎していたが、903年2月25日に大宰府で薨去(君主等の死亡を表わす敬語)し、大宰府にある寺院、安楽寺に葬られる。享年59。なお、現在の鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川にある菅原神社で、菅原道真が死去したとされた、との伝承と共に、菅原道真のものと伝わる墓がある。概要は、身の危険が迫り、筑前国(現在の福岡県西部)から船で水俣湾を経て、現在の鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、現在の鹿児島県薩摩川内市城上町吉川を経て、現在の鹿児島県薩摩川内市東郷町の藤川神社で隠棲し、薨去したとされる。その経路には、船繋石や御腰掛石等の史跡が残っている。また、吉川では、菅原道真を奥座敷の納戸に匿ったことから、年中行事として村人が集まり、女子は左右の袖を広げて男子を隠し、奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている。    
1742年 - ウィルミントン伯スペンサー・コンプトンが、イギリスの第一大蔵卿(首相)に就任する。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行なったため(責任内閣制)、最初の「イギリス首相」とされるのが一般的なイギリスの政治家・貴族、初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは、巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、約20年に及ぶ長期安定政権を築いて、イギリスが商業国家として躍進する土台を築く。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落とし初め、1741年の総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため、1742年に退陣する。そのロバート・ウォルポール内閣で、閣僚職や庶民院議長を務めたウィルミントン伯スペンサー・コンプトンが、後任の第一大蔵卿(首相)となったが、これは名目上のことであり、反ロバート・ウォルポール派であった第2代カートレット男爵ジョン・カートレットが実権を握っており、ウィルミントン伯スペンサー・コンプトンは、翌1743年に第一大蔵卿(首相)在職のまま死去する。なお、第一大蔵卿は、イギリスの国庫を預かる大蔵卿委員会委員長のことであるが、初期の大蔵卿委員は年功序列によって「第一大蔵卿」「第二大蔵卿」等と、番号が割振られていたが、次第に第一大蔵卿が政府の首席と見做されるようになる。1721年の初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール以後は事実上の首相となり、以降財政を司るのは、大蔵卿委員会の次席である第二大蔵卿を兼務する財務大臣となる。首相は、その後も俗称に過ぎなかったが、初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア内閣時代の1905年には、正式な官職となる。僅かな例外を除いて、首相は第一大蔵卿を兼任することが慣例である。   
1791年 - フランス最初の近代議会とされる、三部会(フランス国内の三つの身分[第一身分である聖職者、第二身分である貴族、第三身分である平民]代表者が重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した身分制議会)から離脱した第三身分を中心として形成された、フランス憲法制定国民議会が、独占排他的な商工業組合、ギルドの廃止を宣言する。一般に封建制(君主の下にいる諸侯[君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下]達が土地を領有して、その土地の人民を統治する社会・政治制度)における産物とされるギルドは、販売・営業・雇用、及び職業教育に関しても、独占的な権利を有していたため、自由競争を排除して、ギルドの構成員が共存共栄することが可能であったが、このことが、各個人の自由な経済活動を阻害したとも言える。近世の絶対王政下において、各都市の自主性が失われ、王権に屈していく中で、ギルドは王権に接近し、特権集団として自らの利権擁護を図る。しかし、徐々に市民階級が成長すると、閉鎖的・特権的なギルドへの批判が強まり、市民革命の中でギルドは解体を余儀なくされている。 
1804年 - 第一次バーバリ戦争: アメリカ海軍の軍人スティーブン・ディケーターがトリポリ軍(北アフリカの地中海沿岸にあった、オスマン帝国[現在のトルコ共和国の前身]支配下の独立採算州トリポリの軍隊)を奇襲し、拿捕された帆走フリゲート艦『フィラデルフィア』を破壊する。 
1883年 - 現在の気象庁の前身、東京気象台が日本初の天気図(試験的で、手書きのもの)を作成。 
1900年 - 北海道拓殖銀行が、特殊銀行として設立される。北海道の行政・経済の中心地、札幌に本店を置き、北海道を地盤としていた北海道拓殖銀行は、都市銀行(大都市に本店を構え、広域展開している銀行)としては最も小規模な銀行であったが、一般には拓銀(たくぎん)と呼ばれ浸透し、道内の一般市民の間でも「拓銀さん」と呼ばれ、生活の中で親しまれていた歴史を持つ。1899年に「北海道拓殖銀行法(明治32年3月22日法律第76号)」が制定され、これに基づく特殊銀行(長期に亘る設備投資や対外貿易、或いは植民地政策上の必要性から、特別な法律に基いて設立された政府系金融機関)として設立された後、普通銀行(預金を主な資金源として短期商業銀行貸出しを主として行なう金融機関)、及び貯蓄銀行(個人の貯蓄を引受けることを主目的とする金融機関)業務を兼営して、急激に規模を拡大する。第二次世界大戦後に民間銀行として再発足し、都市銀行の仲間入りを果たすが、1997年11月に経営破綻する。都市銀行としては第二次世界大戦後初、かつ、現在唯一の破綻銀行である。