2月16日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

全国狩猟禁止。
狩猟の最も本来的な目的は、食料や物資といった人間の個別集団の生活に不可欠な必需品を野生動物から獲得することにある。その目的となる食料や物資の典型例は、肉・皮革・油脂・羽毛・骨・牙である。狩猟の歴史は古く、農耕や牧畜が普及しない時代から今日に至るまで行なわれている。時代が下るにつれ、牧畜業が発達した地域においては、食糧を得る目的での狩猟は減少した。生活の必需品を得る目的に代わって、特に、近代産業資本主義が興隆し貨幣経済が発達してからは、商品価値の高い資材の獲得を目的に、大規模な狩猟が行なわれてきた。ただ、狩猟によって特定の種が絶滅したり、生息数が激減する等の生態系への深刻な影響が顕在化してきたため、狩猟には一定の制限が加えられたり、禁止されている場合がある。「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律(鳥獣保護法、平成14年7月12日法律第88号)」に基づき、狩猟を行なっても良い期間である狩猟期間は、原則として、北海道では9月15日から翌年4月15日まで、それ以外の都府県では、10月15日から翌年4月15日までと定められている。但し、現在では、「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律施行規則(平成14年12月26日環境省令第28号)」により、北海道では10月1日から翌年1月31日(猟区内では毎年9月15日から翌年2月末日)まで、それ以外の都府県では、11月15日から2月15日(猟区内では毎年10月15日から翌年3月15日、一部の県の一部の鳥獣につき、猟区外では毎年11月1日から翌年1月31日)までに短縮されている。また、都道府県規則によって、狩猟鳥獣、及び猟法、並びに放鳥獣猟区等を限定した期間の延長、又は短縮が存在する場合がある。つまり、2月16日からは概ね、北海道以外の日本全国では、狩猟が禁止される訳である。現状として、日本の狩猟人口は年々高齢化し、かつ減少しつつある。1979(昭和54)年に約45万であった狩猟人口は、1995(平成7)年には約25万、2007(平成19)年時点で約16万程度である。日本で許可されている銃は約30万丁で、これは国際的には低い登録率であり、日本同様厳しい銃規制を持つ狩猟国イギリスでは、日本の約半分の人口にも関わらず、約500万丁の銃が許可されている。日本の狩猟者の殆どは男性であり、女性の割合は約1%にも満たない。一方、北海道等はエゾシカ・ヒグマ、本州では、イノシシ・ニホンジカに代表される、野生動物による農林業被害は深刻な事実であり、ハンターを増やそうとする取組みも、行政主体で行なわれ始めている。 
確定申告開始日。
確定申告は、所得に掛かる税金(所得税、及び復興特別所得税)の額を計算し、税金を支払うための手続きである。個人事業主、農業従事者、不動産賃貸業を営む個人、不動産の譲渡による利益がある者や、一定の受取保険金がある者等は、収入や費用を自ら計算し、申告しなければならない。申告時期は原則、毎年度、翌年2月16日から3月15日までの1ヶ月間である。期日が土曜日・日曜日と重なると順次繰下げられ、月曜日までとなる。但し、源泉徴収(給与・報酬・利子・配当・使用料等の支払者が、それらを支払う際に所得税等の税金を差引いて、それを国等に納付する制度)税額が所得税額より多く、還付を受ける場合(還付申告)は、申告期限前に当たる翌年1月1日(税務署の窓口に提出する場合は、官庁御用始めとなる1月4日以降の最初の平日)から2月15日までの間でも、申告書を提出することができる。確定申告書の提出自体は、無申告加算税や延滞税の賦課を承知の上で行なうのであれば、時効が訪れない限り、1年中いつでも可能である。また、還付申告の場合も、一部の例外を除き、課税対象期間の翌年から5年後の時効までであれば、いつでも提出できる。
西行忌。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人、西行の命日(1190{文治6}年2月16日[旧暦])。西行は生前、釈迦入滅の2月15日に自らも死にたいと願っており、2月15日を西行忌とすることもある。西行は、秀郷流武家藤原氏の出自で、平安時代中期の貴族・武将であり、近江三上山の百足退治の伝説で有名な、藤原秀郷の9世孫に当たる。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、23歳で出家して円位を名乗り、後に西行とも称した。出家後は心の趣くまま諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。晩年には河内国にある寺院、弘川寺(現在の大阪府南河内郡河南町弘川に所在)に庵居し、この地で入寂(僧侶が死ぬこと)した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが公家で歌人の藤原定家や、僧侶で歌人としても知られる慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。西行は、公家で歌人の藤原俊成と共に、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集『新古今和歌集』の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろん、恋歌や雑歌に優れていた。院政前期(第77代天皇、後白河天皇が譲位した後も、天皇に代わって政務を直接行なっていた時期)流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎ澄まされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また、俗語や歌語ならざる語を歌の中に取入れる等の自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないか、との説もある。
ニコライ祭(日本ハリストス正教会)。 
日本に正教(ギリシャ正教、キリスト教の教派の1つ)を伝道した大主教(正教会における高位聖職者、主教の中で権威の高い位として用いられる称号)聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)が、1912(明治45)年2月16日に亡くなったことを記念したもの。ロシアの修道士であったニコライは、1861(文久元)年に箱館(現在の北海道函館市)のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元出羽国久保田藩(秋田藩)軍医で儒学者の木村謙斉から、日本史研究、東洋の宗教、美術等を約7年間学んだ。また、仏教については、学僧について学んだ。その後、木村謙斉が箱館を去った後の後任として、後に明治六大教育家の1人に数えられる新島襄から日本語を教わる。アメリカ合衆国への渡航を画策して、箱館に潜伏中であった新島襄は、ニコライと共に日本最古の歴史書『古事記』を読んで、ニコライは新島襄に英語と世界情勢を教えた。ニコライは、1870(明治3)年に日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられ、その後は東京に移動して伝道を続けた。1891(明治24)年には、現在の東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂、東京復活大聖堂(ニコライ堂)を完成させる。1904(明治37)年には日露戦争が開戦するが、ニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。内務大臣(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身である内務省の大臣)と文部大臣(現在の文部科学省の前身の1つである文部省の大臣)が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したため、ニコライらの正教宣教団と大聖堂は、被害を受けることがなかった。