2月14日 記念日 その7 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

ザ・ローリング・ストーンズの日。
ユニバーサルミュージック合同会社(東京都港区赤坂に本社を置く、日本に拠点を置く外資系レコード会社の中では最大手の企業)が制定。「サティスファクション」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」等、数々のヒット曲を持ち、世界中で絶大な人気を誇る、イギリスの伝説のロックバンド「ザ・ローリング・ストーンズ」。その「ザ・ローリング・ストーンズ」の魅力を、さらに多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、デビューから28年が経過した1990(平成2)年2月14日に、初めて日本公演を行なったことから。「ザ・ローリング・ストーンズ」は、ロック草創期の1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で創作を続ける、ロックの代名詞的な存在である。1962(昭和37)年4月、イギリスの首都ロンドンで、ブライアン・ジョーンズ(ギター、ハーモニカ)、イアン・スチュワート(ピアノ)、ミック・ジャガー(リードヴォーカル、ハーモニカ)、キース・リチャーズ(ギター、ボーカル)によって結成され、その後間もなく、ベーシストのビル・ワイマンとドラマーのチャーリー・ワッツが参加した。エアロスミス(アメリカ合衆国のロック・バンド)やプライマル・スクリーム(イギリスのロック・バンド)、ジェット(オーストラリアのロック・バンド)、日本では、ザ・テンプターズ(1967[昭和42]年頃から1969[昭和44]年頃にかけて日本で大流行した、エレクトリック・ギターやエレキ・ベース等の電気楽器を中心に数人で編成される、演奏、及び歌唱を行なうグループ、グループ・サウンズの最盛期を支えたバンドの1つ)やRCサクセション(「ザ・キング・オブ・ロック」の異名を取ったミュージシャン、忌野清志郎をリーダーとし、「日本語ロック」の成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼしたロックバンド)等、ローリング・ストーンズに影響を受けたアーティストは数多く存在する。なお、1962(昭和37)年7月12日、「ザ・ローリング・ストーンズ」が、イギリスの首都、ロンドン中心部にあるライブハウス「マーキークラブ」に初出演したことから、7月12日は「ローリング・ストーンズ記念日」とされている。
セカンドオピニオンを考える日。
東京都台東区上野に本社を置く、さまざまな新しい健康インフラサービスを提供する医療サービス企業、ティーペック株式会社が制定。診療を受けている主治医とは別の医師に意見を求めるセカンドオピニオン。自身や家族のもしもの時に備えて、セカンドオピニオンについて正しく理解してもらうことが目的。日付は、「2」と「14」で「2番目(2)」の「医師(い[1]し[4])」と読む語呂合わせと、大切な人を思いやる(考える)日の「バレンタインデー」から、2月14日としたもの。ティーペック株式会社の社名の由来は、「Total Private Emergency Center」の頭文字を取り、「T-PEC」と名付けられた。日本で初めて、24時間年中無休で、電話による健康や医療に関する相談事業を立上げた会社で、現在、健康相談数は日本最多の件数を誇り、この事業を軸に、メンタルヘルス対策、従業員支援プログラム(EAP)、ストレスチェックサービス、セカンドオピニオン手配紹介サービス、糖尿病専門医療機関の案内サービス、認知症の「前駆段階」とされる軽度認知障害(MCI)を早期で発見する簡易認知機能確認スケール(あたまの健康チェック)、集団禁煙プログラム、からだの健康チェック、がん治療と仕事の両立支援サービス等、健康経営を支援するサービスを提供し、事業を拡大している。セカンドオピニオンとは、よりよい決断をするために、当事者以外の専門的な知識を持った第三者に求める「意見」、又は、「意見を求める行為」のことで、日本においては主に、医療の分野で用いられる用語となっている。セカンドオピニオンを求める場合、まずは主治医に対し、他医への紹介状(診療情報提供書)、画像診断フィルム、検査の記録の作成等の情報提供を依頼する必要がある。意見を求められた医師は、これまでの治療経過や病状の推移を把握しないことには、適切な助言をすることが難しいからである。その上で、紹介先を受診し、意見を求めることになる。この時、新たな検査を必要とする場合もある。セカンドオピニオン外来では、主治医に対する報告書を作成し、主治医から提出された資料も返却する。セカンドオピニオン外来は自費診療となる。これは、セカンドオピニオンは「診療」ではなく「相談」になるため、健康保険給付の対象とはならず、原則として、全額自己負担となる。医療において近年、治療効果だけでなく、クオリティ・オブ・ライフ(一般に、それぞれの人生の内容の質や、社会的にみた生活の質のことを指し、ある人が、どれだけ人間らしい生活や、自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度として捉える概念)も重視されるようになってきたことから、特に、これらを両立する方法が問題となる、がん治療や、精神医療の投薬治療において注目されるようになってきた。 
祇王忌。
旧暦2月14日は、鎌倉時代に成立したと推定される、平家(平[たいら]の姓を名乗る一族で、特に、平安末期に政権を握った平清盛の一族をいう)の栄華と没落を描いた軍記物語『平家物語』に登場する、平清盛の寵愛を受けた、京都で有名であった白拍子(平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞を演じる遊女)、祇王(妓王)の忌日とされているが、明らかではない。ただ、春の季語になっている。祇王は、干ばつで苦しむ故郷の村人を救うために、生まれ故郷の近江国祇王村(現在の滋賀県野洲市に所在)に水路を作るよう平清盛に頼んだ。そして、その川は祇王井川と呼ばれ現存する。平清盛の寵愛は後に、同じ白拍子の仏御前に移り、祇王は嵯峨往生院(現在の京都市右京区に所在する祇王寺)に入って尼となった。なお、仏御前も出家して、嵯峨往生院へ入寺したとされる。
周五郎忌。
作家、山本周五郎の1967(昭和42)年の忌日。2017(平成29)年は没後50年に当たり、生誕の地である山梨県や、居住した神奈川県の文学館で、「没後50年 山本周五郎展」が催された。また、テレビでは、山本周五郎原作の旧作ドラマが放映された。山本周五郎は、1903(明治36)年6月22日、現在の山梨県大月市に生まれる。本名は清水三十六(しみず さとむ)。三十六の名前は、生まれ年から付けられ、筆名は、小学校を卒業後に東京で徒弟として住込んだ、質屋「山本周五郎商店」の名前に由来する。その質屋等に勤めながら20代前半に作家活動を始め、短編小説『須磨寺附近』(1926[大正15]年)、戯曲『法林寺異記』(1926[大正15]年)で認められる。以後、少年読物、大衆小説を発表し続け、39歳の時、短編小説『日本婦道記』が第17回直木三十五賞(大衆性を押さえた長編小説作品、或いは短編集に与えられる文学賞で、通称は直木賞)に推されるが、受賞を辞退する。その後も多くの賞を固辞し、文芸評論家からへそ曲がりを意味する「曲軒(きょくけん)」と呼ばれた。山本周五郎は、直木三十五賞(直木賞)において、授賞決定後に辞退をした史上唯一の人物である。肝炎と心臓衰弱のため63歳で死去。山本周五郎作品の中でも、最も多く映像・舞台化されている長編歴史小説『樅ノ木は残った』や、数次に亘って映像・舞台化されている連作短編時代小説集『赤ひげ診療譚』等、江戸の庶民を描いた人情ものから歴史長編まで、数多くの作品があり、大衆文学の質を高めた功績は大きい。