2月12日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

ブラジャーの日。
京都市南区吉祥院中島町に本社を置く、女性下着等を中心とした衣料品のトップメーカー、株式会社ワコールが制定し、現在は、東京都中央区日本橋富沢町に所在する、アンダーウェア、ナイトウェア等の衣料品関連の業界団体、一般社団法人日本ボディファッション協会が実施している。日付は、1914(大正3)年2月12日に、アメリカ人女性メアリー・フェルブス・ジェイコブが、ハンカチをリボンで結んだだけのブラジャーの原型となるものを考案し、特許を申請したことから。これにより、女性は体を締付けるコルセットから開放された。ブラジャーは、補正のための下着であるファウンデーションの一種で、女性が胸部に着用する下着である。身体にフィットしたブラジャーを装着することで姿勢が良くなり、身が引締まって心身の健康に良いという効果もある。日本では、大正末期から昭和初めにかけて洋装下着は徐々に取入れられていった。ブラジャーは「乳房ホルダー」「乳房バンド」の名称で、婦人雑誌の広告にも登場しているが、衛生用品として薬局で売られることもあった。しかし、本格的に普及するのは第二次世界大戦後のことで、1948(昭和23)年に株式会社ワコールの前身であるアクセサリー販売会社、和江商事がブラパッドの独占販売権を取得。その後、パッドを入れる内袋の付いたブラジャーを販売して大ヒットし、和江商事は下着メーカーへと変身を遂げ、1957(昭和32)年には、商号をワコール株式会社と変更したが、他社と重複していた商標を変更する際、「和江の名を永遠に留める」( = 和江留)との意味を込め、「ワコール」とした。そして、1964(昭和39)年に、現在の社名である株式会社ワコールと改称している。株式会社ワコールは、女性用下着販売を事業の中心とする、京都市に本拠を置く衣料品メーカーである。主軸のメインブランド「ワコール」と、低価格のサブブランド「ウイング」の2つのブランドを中心に展開している。また、「ウンナナクール」等の複数のブランドを使い、大型ショッピングセンター内を中心に直営販売店(SPA = 製造小売業)も展開する。これ以外に、ハウスデザイン事業部(「女性の視点による」インテリアコーディネイト)や女子陸上部にも力を入れている。また、株式会社ワコールでは、「ブラジャー検定」「ブラリサイクルキャンペーン」等を行なっている。女子マラソンの日本記録、アジア記録保持者で、2004(平成16)年8月22日(現地時間)に行なわれた2004年アテネオリンピック(第28回オリンピック競技大会)女子マラソンで優勝して、2000(平成12)年のシドニーオリンピック(第27回オリンピック競技大会)での高橋尚子に続き、日本に2大会連続のオリンピック女子マラソン金メダルをもたらした野口みずきは、三重県立宇治山田商業高等学校を卒業後、株式会社ワコール女子陸上部に入社している。なお、株式会社ワコールは、身体に合った正しいブラジャーを着けて、クーパー靱帯(女性のバストを支える大切な組織)を守る大切さをアピールすることを目的に、9月8日の「9」と「8」で、「ク(9)ーパ(8)ー」と読む語呂合わせから、9月8日を「クーパー靱帯の日」としている他、3月12日の「3」と「12」で、「サ(3)イ(1)ズ(2)」の語呂合わせから、3月12日を「サイズの日」として、この日をきっかけに、サイズの大切さを、より多くの人に知ってもらい、自分の体形にフィットするものを選んでもらうことを目指す、等している。
黄ニラ記念日。 
岡山県の特産として、和食、中華、洋食で幅広く使われている黄ニラを、より多くの人にアピールしようと、全国農業協同組合連合会(全国の農業協同組合が出資し、組織している[JA全農]連合組織)岡山県本部(JA全農おかやま、所在地は、岡山市北区磨屋町)が制定。日付は、2月が黄ニラの最盛期であり、鍋物等への需要期であること、そして、2月12日の「2」と「12」で、「にっこり(2月)いいニラ(12日)」の語呂合わせ等から。ネギ属に属する多年草、ニラには、緑色の葉ニラの他に、ニラの芽が出る前の根株に覆いを被せて光を制限することで軟白化させた黄ニラがあり、ニラ特有の臭みが無く、より柔らかく、甘みが有る食材となっている。黄ニラの栽培は明治時代から始まり、日光を遮る覆いを被せ、軟化栽培される。そのため、食感は緑色の葉ニラに比べて柔らかく、甘く上品な香りと独特の風味がある。鮮やかな黄色が特徴の黄ニラが、寿司の具としても用いられる岡山県では、全国の約7割を生産し、高級食材として、東京を中心に、名古屋、京阪神等へ、広く出荷している。この日には、岡山市南区市場に所在する中央卸売市場(「卸売市場法[昭和46年4月3日法律第35号]」に基づいて政令で定める、農畜水産物を現実空間で競売取引する卸売市場[生鮮食料品等の卸売のために開設される市場であって、卸売場、自動車駐車場、その他の生鮮食料品等の取引、及び荷捌きに必要な施設を設けて継続して開場される]で、生鮮食料品等の流通、及び消費上、特に重要な都市、及びその周辺の地域における生鮮食料品等の円滑な流通を確保するための、生鮮食料品等の卸売の中核的拠点となると共に、当該地域外の広域に亘る生鮮食料品等の流通の改善にも資するものとして、農林水産大臣[農林水産省]が認可・監督するもの)、岡山市中央卸売市場で「黄ニラ祭り」が開催される。 
乳酸菌のくすりの日。
兵庫県神戸市中央区三宮町に本社を置く、乳酸菌製剤の老舗で、胃腸薬等、一般用医薬品を主に取扱う大手製薬会社、ビオフェルミン製薬株式会社が制定。ビオフェルミン製薬株式会社は、日本で初めて乳酸菌を製品化した乳酸菌のくすり「ビオフェルミン」を製造。記念日を通して、乳酸菌の腸内環境を整える力等を、より多くの人に知ってもらい、健康づくりに役立ててもらうことが目的。日付は、ビオフェルミン製薬株式会社の創立記念日、1917(大正6)年2月12日から。ビオフェルミン製薬株式会社は、株式会社神戸衛生実験所として創業され、1949(昭和24)年に現在の社名に変更されたが、当初から一貫して、「ビオフェルミン」を中心として企業経営を成立たせている。ビオフェルミン製薬株式会社が乳酸菌の研究を始めた頃、日本ではまだ、乳酸菌はよく知られていなかった。しかし、その確かな効果を人々のために役立てたいと研究を進め、「乳酸菌のくすり」を広めてきた。そして、乳酸菌への期待がますます大きくなっている今。新しい可能性を求めて、より一層研究・開発に力を注ぎ、乳児から高齢者まで、皆の健康を助ける「乳酸菌のくすり」を追究し続ける。

世界てんかんの日(International Epilepsy Day)。
2月第2月曜日。東京都豊島区南大塚に本部を置き、2013(平成25)年4月に公益社団法人となった日本てんかん協会(波の会)が制定。てんかんについての正しい知識を広めることが目的。日付は、国際てんかん協会と国際抗てんかん連盟が、ヨーロッパでは、聖ヴァレンタインがてんかんのある人々を救った聖人として称えられていることに因み、バレンタインデー直前の月曜日を「世界てんかんの日」としたことに倣って。公益社団法人日本てんかん協会は、てんかんに対する社会的理解の促進、てんかんに悩む人達の社会援護活動等を行なっている。てんかん(癲癇)は、脳細胞のネットワークに起きる異常な神経活動のため、てんかん発作を来す神経疾患、或いは症状で、神経疾患(脳・脊髄・末梢神経等に障害を引起こす病気の総称)としては最も一般的なものである。古くから存在が知られる疾患の1つで、特に、全般発作時の激しい全身の痙攣から、医学的な知識がない時代には、狐憑き等に代表される憑き物が憑依したと誤認され、時に周囲に混乱を起すことがあり、差別の対象となることがあった。てんかんは、予防不可能、かつ根治不可能であるが、大部分は安価に管理可能な病気であり、抗てんかん薬が用いられる。
ダーウィンの日(Darwin Day)。 
イギリスの自然科学者、チャールズ・ダーウィンの1809(文化6)年の誕生日。チャールズ・ダーウィンは、卓越した地質学者・生物学者で、全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、チャールズ・ダーウィン自身が「自然選択」と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにした。進化の事実は、存命中に科学界と一般大衆に受入れられた一方で、「自然選択」の理論が進化の主要な原動力と見做されるようになったのは1930年代であり、自然選択説は、現在でも進化生物学の基盤の1つである。また、チャールズ・ダーウィンの科学的な発見は、修正を施されながら生物多様性に一貫した理論的説明を与え、現代生物学の基盤をなしている。チャールズ・ダーウィンは、進化論の提唱の功績から、今日では生物学者と一般的に見做される傾向にあるが、自身は存命中に地質学者を名乗っており、現代の学界でも地質学者であるという認識が確立している。2009(平成21)年には、チャールズ・ダーウィンの誕生200周年と、チャールズ・ダーウィンの著作『種の起源』出版150周年記念として、「ダーウィン展」等の催しが、世界中で行なわれた。 
菜の花忌。
作家で評論家、司馬遼太郎の1996(平成8)年の忌日。司馬遼太郎が好きであった花に因んで、「菜の花忌」と名付けられた。また、『菜の花の沖』という長編小説があることにも由来する。司馬遼太郎は大阪市生まれで、筆名の由来は「古代中国前漢時代の歴史家、司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。産経新聞社記者として在職中に、長編小説『梟の城』で直木賞を受賞し、歴史小説に新風を送る。代表作に、何れも長編小説の『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』等多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。紀行集『街道をゆく』等、多数のエッセイ等でも、活発な文明批評を行なった。司馬遼太郎の作家としての特徴は、基本的に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物を中心に描いていることにある。それによって、作者が主人公に対して持つ共感を、読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻込む手法を取ることが多い。また、歴史の大局的な叙述と共に、ゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突放した客観的な描写によって、乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。作家として後半期は、小説創作から遠ざかり、随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を進めたところに特徴がある。なお、3月12日の詩人、伊東静雄の忌日も「菜の花忌」と呼ばれている。