2月11日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-660年 - 初代天皇、神武天皇が即位(奈良時代に成立した日本に伝存する最古の正史『日本書紀』によるもので、2月11日はグレゴリオ暦での日付)。この日付は、1873年に制定されている。 
0055年 - ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス)が、晩餐の最中に、13歳の義弟ブリタンニクス(ティベリウス・クラウディウス・カエサル・ブリタンニクス)を暗殺する。
0200年 - 中国の古代王朝、後漢の武将であった曹操打倒のクーデター計画が発覚して捕らえられた、董承(後漢の武将で、次第に権力を強大化させる曹操を恐れた献帝[後漢第14代皇帝で、最後の皇帝となった]により、曹操を誅殺せよとの密勅を受けていた)ら一派が処刑される。 
1806年 - ウィリアム・ピット(小ピット)の死を受けて、ウィリアム・グレンヴィルがイギリス首相に就任。 
1812年 - アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州の第9代知事エルブリッジ・ゲリーが、自分の所属する政党に有利なように選挙区の区割りを変更するが、歪な形から「ゲリマンダー」と呼ばれる。 
1814年 - 北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置するノルウェーが、デンマーク=ノルウェー(同君連合)からの独立を宣言。 
1840年 - イタリアのオペラ作曲家、ガエターノ・ドニゼッティのオペラ・コミック(歌以外の台詞を含むオペラの一形態)『連隊の娘』がフランスの首都パリで初演。 
1843年 - イタリアのロマン派音楽の作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『十字軍のロンバルディア人』がイタリア北西部にあるミラノで初演。 
1855年 - テオドロス2世がエチオピア皇帝(アフリカ東部に所在したエチオピア帝国の皇帝)に即位。 
1869年 - 現在の神奈川県横須賀市にある三浦半島東端の観音崎に、日本初の洋式灯台、観音埼灯台が完成する。観音埼灯台は、白色八角形の中型灯台であり、日本の灯台50選に選ばれている。東京湾、浦賀水道を照らし、東京湾海上交通センターと合わせ、海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与している。初代の設計は、フランスの海軍技術者(造船・製鉄・艦船修理等の技術者)レオンス・ヴェルニー等が担当したが、大正時代の地震により2度再建され、現在の灯台は3代目となる。周辺は県立観音崎公園となっており、自然環境が保護されている。 
1873年 - スペイン国王アマデオ1世が退位し、スペイン第一共和政が成立。 
1875年 - 大阪会議が開催される。大阪会議は、明治政府の要人である大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが大阪・北浜(現:大阪市中央区北浜)の料亭「加賀伊(かがい)」に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)、及び参議就任等の案件について協議した会議である。武力をもって朝鮮を開国しようとする主張、征韓論を巡る明治六年政変で、政府首脳が分裂した結果、征韓派の西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去る。残った要人は、急速、かつ無秩序に行なわれた、これまでの制度改革を整理すべく、大久保利通を中心に、国内行政の大半を担った内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)を設置する。大久保利通の他、岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行なうが、直後に台湾出兵(台湾に漂着した宮古島の島民54名が殺害される事件、宮古島島民遭難事件に対し、中国清朝政府が責任回避したとして、犯罪捜査等を名目に、警察ではなく軍を派遣したもの)を巡る意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で薩長閥のトップは、大久保利通だけになってしまう。政府に対する不満は、全国で顕在化し、肥前国佐賀藩藩士から明治政府の要職に就き、その後下野した江藤新平や、肥前国佐賀藩藩士から明治政府の官吏となったが、退官していた島義勇らをリーダーとして、佐賀で起こった明治政府に対する大規模な士族反乱、佐賀の乱を始め、各地における士族の反乱、鹿児島県においては、下野した西郷隆盛が設立した、私学校党による県政の壟断(独占)を招き、また、板垣退助らは愛国公党を結成し、自由民権運動を始動する等、不穏な政情が世を覆うようになる。そのような状況下、東京の赤坂喰違坂(現在の東京都港区に所在)で、岩倉具視が不平士族の武市熊吉らに襲撃される事件(喰違の変)が発生する。さらに、左大臣に就任した、幕末の薩摩国/大隅国薩摩藩藩における事実上の最高権力者、島津久光が、政府へ改革反対の保守的な建白書を提出したことに始まる紛議によって、政局は混迷する。政治改革のための財政的基盤となる地租改正(明治政府が行なった租税制度改革で、この改革により、日本に初めて、土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は、土地制度改革としての側面を有している)も遅々として進まず、次第に大久保利通も焦り始める。当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた井上馨は、この情勢を憂い、混迷する政局を打開するには、大久保利通、木戸孝允、板垣退助による連携が必要との認識を抱き、盟友の伊藤博文と共に仲介役を試みる。木戸孝允との連携の必要性を感じていた大久保利通もこれに応じ、伊藤博文に木戸孝允との会談の斡旋を依頼して、自ら大阪へ向かう。1874年12月、井上馨は、山口県へ帰っていた木戸孝允を大阪に呼寄せ、また、自由民権運動の士、小室信夫や古沢滋らに依頼して、東京にいた板垣退助も招く。こうして、大阪に集った大久保利通、木戸孝允、板垣退助の三者による協議が、井上馨と伊藤博文を周旋役として行なわれることとなる。また、この背景には、井上馨と同じように、官界を去って実業界入りしていた五代友厚の斡旋があり、現在の大阪市西区靱本町(科学技術の振興と、関西産業発展のための諸事業を推進する一般財団法人、大阪科学技術センターの所在地)にあった五代友厚邸は、大阪会議の準備会談として使われ、大久保利通や伊藤博文らが何度も往復したという。大久保利通は、下準備のために約1ヶ月間もの間五代友厚邸に入り、年末年始を五代友厚邸で過ごす。他方、木戸孝允も来阪すると五代友厚邸に大久保利通を訪ね、碁を囲んでいる。このことからも、両者は五代友厚邸で囲碁を楽しんだことが分かる。五代友厚は、大久保利通のためには労を惜しまなかったため、大久保利通から五代友厚に宛てた「松陰(友厚の号)君へは近々勅丈にても御差立御模様に候間為御心得申上置候」との手紙は、五代友厚が単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立入った、積極的な役割を果たしたことを想像させる。大久保利通、木戸孝允、板垣退助の三者の思惑は全く別のものであったが、このように、大久保利通の相談役、そして、板垣退助との仲介役として、この不一致を穏便に纏めた五代友厚らによって、大阪会議は成功へと導かれる。なお、料亭「加賀伊(かがい)」では、政治の話は一切出ず、三者による酒席と歓談のみが行なわれたという。約1ヶ月に及ぶ議論の妥結を喜んだ木戸孝允は、舞台となった料亭「加賀伊(かがい)」の店名を「花外楼」と改名することを提案し、自ら看板を揮毫(毛筆で言葉を書くこと)している。三者合意による政体改革案は、直ちに太政大臣三条実美に提出され、3月に木戸孝允と板垣退助は、参議へ復帰する。合意に基づき、4月14日には、第122代天皇、明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔書(明治8年4月14日太政官布告第58号)」が発せられ、元老院(新法の制定と旧法の改定を行なうことされた、明治初期の立法機関)、大審院(現在の最高裁判所に相当)、地方官会議(府県長官の会議)を設置し、段階的に立憲政体を立てることが宣言される。一方、板垣退助は参議就任により、愛国社(明治時代の自由民権運動前期の政治団体)創立運動の失敗を招いたため、自由民権派から背信行為を厳しく糾弾され、釈明に追われることとなる。