2月10日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2土曜日 旧暦  1月 1日、先勝(甲辰)、月齢  0.2  
グレゴリオ暦で年始から41日目、年末まであと325日。
誕生花 沈丁花・エンドウ。


二十四節気・雑節等
新月。
朔。朔とは、月と太陽の視黄経(天球上における太陽の見掛けの通り道[大円])が等しくなること、また、その時刻のことである。現代的な定義での新月と同義である。地球から見て月と太陽が同じ方向となり、月から反射した太陽光が地球に殆ど届かないことと、強い太陽光の影響とで地上からは月が見にくい。黄道と白道が極めて近いか重なる地点(月の交点)で朔となった場合に食である日食が起こる。朔の瞬間を含む日を朔日という。陰暦(太陰太陽暦を含む太陰暦)では、朔日を月の始まる日「1日」とする。月の始まりは「月立ち(つきたち)」が転じて「ついたち」と言うため、朔日は「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む。新月は、本来は朔の後に初めて見える月のことである。陰暦二日までは月は殆ど見えないので、陰暦三日頃の月(三日月)が新月となる。
 
正月(旧暦)。
旧暦の元日で、旧正月ともいう。但し、「正月」という言葉は、本来は旧暦1月のことであり、日本以外では「旧正月」とは呼ばない。旧暦1月1日は、通常雨水(2月19日頃)の直前の朔日であり、1月22日頃から2月19日頃までの間を毎年移動する。旧暦で平年であった年は、翌年の旧正月は約11日後退し、閏月があれば約18日進む。地方によっては、旧暦の日付を重視する地域もある。中国では「春節」として、祝日化している。なお、旧正月は、全ての国で同じ日とは限らない。日本とベトナムの旧正月は、時差により、中国標準時を使っている他国と異なることがある。また、モンゴルの旧正月は、中国暦とは別系統のモンゴル暦の年初なので、他国と異なることが多い。沖縄県(名護市や糸満市等、漁師町が特に顕著)、南西諸島を除く日本の旧正月は、一部の神社の祭典や寺での行事が残っていることを除いて、特に話題に上ることは少ない。しかし、マスメディアで時々報道されるため、日本でも、旧正月という言葉自体は残っている。2010年代前半から、中国人を中心とした旅行客が同時期に日本に集中するようになり、インバウンド消費(訪日外国人観光客による日本国内での消費活動を指す観光用語)に貢献している。航空券価格の高騰や、東京の秋葉原、銀座等での電機店や百貨店等での爆買い(一度に大量に買うことを表わす俗語)、温泉街・スキーでの混雑が見られるようになった。中国では、1911(明治44)年の辛亥革命(中国で発生した民主主義革命)後、翌1912(明治45)年の中華民国の成立時に太陽暦が正式に採用され、元旦は新暦の1月1日へ移動し、旧暦1月1日は「春節」とされ現在に至る。旧正月は、英語で「Chinese New Year (CNY)」「Lunar New Year」等と呼ばれるが、「Chinese New Year」は中国に限らず中国暦(及び、その変種)での旧正月の総称として使える。但し、モンゴルの旧正月は中国暦ではないので含まない。「Lunar New Year」は、中国暦・モンゴル暦のみならずイスラム暦等を含む、太陰暦・太陰太陽暦一般の年初の総称である。「Japanese New Year」は、日本でのグレゴリオ暦の正月を意味するので、旧正月を意味するには「Traditional Japanese New Year」という必要がある。
ギョーザの日。
東京都中央区銀座に本社を置き、冷凍ギョーザを販売する、食品事業・ケミカル事業・医薬事業等を運営する味の素グループの冷凍食品メーカー、味の素冷凍食品株式会社が、この日にギョーザを大いに食べて、その美味しさをもっと知ってもらおうと、2011(平成23)年に制定。日付は、ギョーザの生まれ故郷である中国では縁起の良い食べ物として、旧正月にギョーザを食べる習慣があることに因む。制定者は、味の素冷凍食品株式会社の冷凍餃子販促キャラクター「ギョーザる」、としている。その後、年により日付が変わり覚えにくい等の理由で、2022(令和4)年から記念日の日付は3月8日となった。その日付は、「み(3)んなでハ(8)ッピーギョーザの日」の語呂合わせに由来する。また、家庭用ギョーザで一番食べられている味の素冷凍食品株式会社の「ギョーザ」が発売された、1972(昭和47)年3月8日にも因んでいる。味の素冷凍食品株式会社の冷凍ギョーザが発売された当時は、まだ電子レンジがあまり普及していない時代で、家庭における電子レンジ普及率は10%未満であった。味の素冷凍食品株式会社では、冷凍食品を、家庭の食卓にのぼる頻度が比較的高い、家庭で手づくりしにくい、家庭の調理器具で解凍調理が容易にできる、という3つのコンセプトを基に開発し、冷凍ギョーザは、発売された12品の冷凍食品の中の1つであった。その後、調理簡便性の高い冷凍食品に対するニーズが高まる中で、味の素冷凍食品株式会社のギョーザは、「おいしさたっぷりの具」「油なしでパリッと焼ける」「おいしさは素材から」「おいしい安心、自社工場から」等のキャッチコピーと共に、何度もリニューアルされてきた。そして、2012(平成24)年に「油・水なしでパリッと焼ける」ギョーザが完成した。「羽根の素」の技術開発により、油・水なしでさらにパリッとジューシーに焼ける新調理法を実現した。さらに、顧客からの声を取入れ、使い勝手のよい「小分けトレイ」になり、全ての「野菜の国産化」を行なった。日本で初めて、工場で作った生の餃子を販売したのは、東京都中央区銀座に本社を置く、主に魚肉練り製品等を製造する、業界では最大手の食品メーカー、株式会社紀文食品であり、現在は、多数の食品会社や餃子店がチルド食品や冷凍食品として各種餃子を販売している。冷凍餃子のシェアでは、2012(平成24)年時点で味の素冷凍食品株式会社が9年連続でシェア1位で、家庭用国内シェアは約47%(店頭市場ベース)と、圧倒的な「独り勝ち」の状態で、その時点でシェア2位は、餃子を中心とする中華料理チェーンの「大阪王将」を前面に打出した、東京都品川区東品川に本社を置く、外食事業や冷凍食品等の販売事業を展開する企業、イートアンド株式会社製である。その後、1位の味の素冷凍食品株式会社はさらにシェアを伸ばし、50%を超えた。2014(平成26)年に、冷凍餃子市場は前年比約8.4%の増加で、約388億円となっており、シェア2位に付けるイートアンド株式会社も、「羽根つき餃子」の投入と認知の拡大という方法で、市場シェアを30%を僅かに超えるまで伸ばした。ギョーザ(餃子)は、紀元前6世紀頃の中国の遺跡から、既に食べられていた痕跡が見付かっている。中国では、水餃子(茹でて湯切りをしたもの)が主流であり、焼き餃子は余り食べられていない。日本では焼き餃子が主流であり、用いる具材、調理法も中国で主流のものと異なる。日本の餃子は、薄目の皮を使い、豚ひき肉、キャベツ、ニンニク、ニラ等を入れるのが一般的である。日本に餃子が伝わった当時は、物資不足のため豚肉ではなく羊肉を使用していたことから、臭みの強い羊肉の臭い消しとしてニンニクが用いられた。その後、豚肉がメインで使用されるようになってからも、風味の良いニンニクが餃子とも相性が良く好まれたため、今日も多くがそのまま具材として使用され続けている。日本国内で初めて餃子を食べた人物は、常陸水戸藩第2代藩主で、「水戸黄門」としても知られる徳川光圀とされており、明の儒学者で、日本に亡命していた朱舜水から教わったという。明治時代までにも餃子を出す中華料理店は存在し、料理書でも作り方は紹介されている。しかし、呼び方は「チャオツ」等、原語の音をそのまま使い、「メリケン粉に包んだもの」や「焼いた豚饅頭」等という解説を付けなければならない程、庶民には縁遠い存在であった。日本で、一般の日本人が食べられるようになったのは第二次世界大戦後で、満州(現在の中国東北部に所在)等からの引揚者によって広く普及するに至った。しかし、米飯が主食の日本ではおかずとして、水餃子ではなく薄目の皮を使用した焼き餃子が主流となった。以降、大衆的な日本人向けの中華料理店やラーメン店、また、餃子専門店、スーパーやデパートの惣菜コーナー等で広く扱われ、家庭の手軽な惣菜として定着し、家庭で食材から作る他、冷凍食品・チルド品も多くの種類のものが出回っている。
世界マメの日(World Pulses Day)。
国際連合の専門機関の1つ、国際連合食糧農業機関(FAO)が制定した国際デー。世界の食料としての豆類の重要性について、一般の人々の認識を高めることが目的。この日を中心として、豆類の栄養や環境におけるメリットについて、広く知ってもらうためのイベント等が実施される。国際連合は、2016(平成28)年を「国際マメ年(International Year of Pulses:IYP)」として実施した。この成功に基づいて、2018(平成30)年12月の国際連合総会で2月10日を「世界マメの日」として制定し、翌2019(平成31)年より実施している。この「世界マメの日」は、国際連合の「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」における「持続可能な食糧生産」の一環として、豆類が重要な作物であることを提示している。豆類は、たんぱく質やその他の栄養素を豊富に含む食べ物である。また、脂肪が少なく、水溶性の食物繊維が豊富で、血液中のコレステロールを下げ、血糖値の制御等、健康維持に役立つ。さらに、豆類は農家にとって重要な作物であり、経済的な安定を生み出し、家庭における食料の安全保障に貢献する。
観劇の日。
1911(明治44)年2月10日、日本初の西洋式演劇劇場である帝国劇場(帝劇)が完成したことによる。帝国劇場は、現在の東京都千代田区丸の内にある東宝(映画・演劇の製作配給・興行や不動産賃貸を手掛ける企業)の直営劇場で、開館は同1911(明治44)年3月1日であり、帝国劇場(帝劇)より前に完成した劇場は、木造であった。日本の鉄骨建築の先駆者である建築家、横河民輔の設計によるルネサンス建築様式(古典古代[古代ギリシャ・ローマ時代を指す名称]を理想とするルネサンスの建築における表現)で、白煉瓦の建物、石とコンクリートでできた西洋式劇場であった。1912(大正元)年から1916(大正5)年にイタリア人コレオグラファー(振付師)・演出家、ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーを招いて、オペラやバレエを上演した他、六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎、七代目澤村宗十郎らが専属俳優となり、歌舞伎やシェイクスピア劇(イングランドの劇作家・詩人で、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもあるウィリアム・シェイクスピア作の戯曲による演劇)等を上演した。当時の「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文句は流行語にもなり、消費時代の幕開けを象徴する言葉として定着した。1923(大正12)年9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)では、隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちたが、横河民輔により改修され、翌1924(大正13)年に再開した。1930(昭和5)年に松竹(映画、演劇の制作、興行、配給を手掛ける企業)の経営となり、間もなく洋画封切館に転用され、SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となった。1939(昭和14)年、運営会社を東宝が合併し、翌1940(昭和15)年に松竹の賃借期限が切れると共に、東宝の手により、元の演劇主体の興行形態に戻される。第二次世界大戦後の1955(昭和30)年、舞台にスクリーンの横縦比2.88:1の大型スクリーン映画『シネラマ』が設置され、再び『シネラマ』主体の洋画ロードショー用の映画館に転じたが、1965(昭和40)年に初代帝国劇場は解体される。翌1966(昭和41)年、建築家の谷口吉郎が設計した現在の帝国劇場が落成した。建物は、国際ビルヂングとの一体型複合ビルである。機能的にも構造的に異質な、オフィスと劇場を1つのビルに収容する難易度の高い条件であったが、外装は赤褐色を基調に、黒と銀色をアクセントに用い、白亜の殿堂であった旧帝劇ビル(初代帝国劇場)とは対照的となった。東宝の希望により、帝国劇場は建物の内、南東の角に入った。現在の帝国劇場の廻り舞台は、大小4つの迫りが内部に設置されており、直径16.4m、高さ22.0mあって、劇場のある地上1階から地下6階までを貫いている。ミュージカルや演劇の上演している他、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する、音楽に関する賞『日本レコード大賞』の発表会や年末ジャンボ宝くじの抽せん会場としても使用された。出光美術館は、石油類の精製や、石油製品、石油化学製品等の販売等を行なっている企業、出光興産の創業者である実業家、出光佐三が長年に亘り収集した美術品を展示するため、1966(昭和41)年に開館した。帝国劇場、並びに出光興産本社が入居する帝劇ビルの9階にあり、館内のロビーからは、隣接する皇居外苑(東京都千代田区にある国民公園)が一望できる。収集品は、日本・東洋の古美術が中心で、日本や中国の絵画、書跡、陶磁等が系統的に収集されている。特色あるコレクションとしては、唐津焼(近世初期以来、現在の佐賀県東部・長崎県北部で焼造された陶器)、仙厓義梵(江戸時代後期の臨済宗古月派の禅僧・画家で、禅味溢れる絵画で知られる)の書画1000点超等がある。また、19世紀後半から20世紀前半期のフランスの画家、ジョルジュ・ルオーや、20世紀のアメリカの画家、サム・フランシス等の西洋近現代美術の収集もある。開館後も収集を継続しており、1983(昭和58)年には、国宝の『伴大納言絵巻』(平安京大内裏の応天門[朝廷内での政務・重要な儀式を行なう場であった朝堂院{八省院}の正門]が放火により焼失し、大納言伴善男父子に嫌疑が掛けられ、有罪となり流刑に処された事件、応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物で、作者は大和絵[平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画]画家、常盤光長とされている)を購入し、話題になった。館内は約2年掛けて2007(平成19)年に全面改装され、通常の展示室の他に、茶室朝夕菴(ちょうせきあん)、陶片資料室、ジョルジュ・ルオーと19世紀後半から20世紀前半期のノルウェー出身の画家、エドヴァルド・ムンク専用の展示室がある。陶片資料室は、1966(昭和41)年の開館時に、陶磁器研究家の小山冨士夫によって設けられ、世界各地の窯跡から発掘された陶磁器の破片が、系統的に展示されている。
蕗の薹(ふきのとう)の日。
2月10日の「2」と「10」で、「ふ(2)きのとう(10)」の語呂合わせから、宮城県古川市(2006[平成18]年の町村合併に伴なって、周辺6町と合併し、大崎市に移行している)の特産品を販売する「ふるさとプラザ」内のササニシキ資料館が1993(平成5)年に提唱。なお、ササニシキ資料館は、1984(昭和59)年に、国的にも貴重なコメの資料館として開館したが、大人210円の入館料では諸経費を賄えず、赤字による資金難から、2006(平成18)年3月に閉館している。 蕗(ふき)は、キク科フキ属の多年草で、日本原産であり、北海道、本州、四国、九州及び沖縄県に分布し、北は樺太から朝鮮半島や中国大陸でも見られる。山では沢や斜面、河川の中洲や川岸、林の際等で多く見られる。郊外でも河川の土手や用水路の周辺に見られ、水が豊富で風が余り強くない土地を好み繁殖する。早春、葉の伸出より先に花茎が伸び出す。これを蕗の薹(ふきのとう)と呼んでいる。蕗の薹(ふきのとう)は、蕾の状態で採取され、天ぷらや煮物・味噌汁・ふきのとう味噌等に調理して食べられる。一般的には、花が咲いた状態のふきのとうを食べることは避けられるが、細かく刻んで油味噌に絡める「ふきのとう味噌」等には利用可能である。花は独特の清涼感がある。