2月7日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0457年 - トラキア(南東ヨーロッパのバルカン半島南東部の歴史的地域名)生まれの軍人、レオ1世が、東ローマ帝国(東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の国家)レオ朝(かつて蛮族とされていた、トラキア族による異民族色の強い王朝)の初代皇帝に即位する。 
1369年 - 足利義満が、正式に室町幕府第3代将軍に就任する。足利義満は、室町幕府第2代将軍足利義詮の長男ではなかったが、正室の生んだ男子の内、最も年長の子である嫡男として扱われ、足利義詮が重病に陥ったことから政務を委譲されており、足利義詮の死去により、家督と将軍職を相続する。 
1450年 - イングランドの貴族、ジョン・ドゥ・ラ・ポール(サフォーク公)と貴族階級の女性マーガレット・ボーフォートが結婚。マーガレット・ボーフォートは生涯4度結婚したが、唯一の子どもが、戦いで王座を得た最後のイングランド王となった、後のヘンリー7世である。ヘンリー7世は君主の権力を回復し、政治を安定させ、優れた統治、積極的な外交政策と経済運営を行なっている。 
1657年 - 江戸幕府が吉原遊郭を移転させる。吉原遊廓は、江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の東京都中央区日本橋人形町)にあり、この年の1月に、江戸城天守閣や江戸市街の殆どを焼失させた明暦の大火の後、幕府開設の頃とは比較にならない程、周囲の市街化が進んでいたことから、浅草千束(現在の東京都台東区日本堤)に移転する。なお、前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶ。江戸幕府開設間もない1617年に誕生した吉原遊廓の、「吉原」という呼び名の語源は、遊廓の開拓者であった庄司甚内の出身地が、東海道五十三次の14番目の宿場、吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたため、という説がある(葦 = 悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に、大御所家康公認の公娼があり、そこに七ヶ丁もの広大な面積を誇る遊郭があって、吉原はその内五ヶ丁を、大御所家康亡き後、駿府から移したのが始まりである(二丁町遊郭)。新吉原は正式名称で、略して吉原と呼ばれ、江戸城の北に当たるところから「北国」、又は「北州」の異名もある。周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があり、新吉原初期の頃には幅5間(約9m)、江戸末期から明治初期には縮小されて幅2間(約3.6m)、1900年頃には3尺(約90cm)程の堀が巡らされ、出入口は、正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されている。遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)等の身分があり、店にも、茶屋を通さないと上がれない、格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列がある。大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。江戸前期の一流の遊女は、和歌や茶道等、教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったという。遊女や吉原風俗は、浮世絵や、絵入り娯楽本の1つである黄表紙、遊所(遊廓等)での遊びについて書かれたものが殆どで、粋(いき)を理想とし、話を楽しむためだけでなく、実用的な遊び方指南や一種のガイド本として読まれた洒落本等の題材にもなり、吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもないが、文化の発信地という側面も持っていた、とも言える。遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあり、武士は編み笠を被り、顔を隠していたという。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心となる。明治以降、1872年に、「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件(芸娼妓解放令、明治5年10月2日太政官布告第295号)」が出され、1875年には遊女屋は「貸座敷」と名を変えたが、遊女は相変わらず「籠の鳥」であり、自由な外出もできず、人身売買の実態は江戸時代と同様、旧態依然の状態で、1903年には、写真指名システムが始まり(「写真見世」)、1916年には、張店が禁止されている。江戸時代にも度々大火に見舞われた吉原は、近代以降も1911年4月9日に大火が発生し(約6,500戸を焼失した「吉原大火」)、1923年9月1日の大正関東地震(関東大震災)、1945年3月10日の東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活する。第二次世界大戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により公娼(公に営業を許された娼婦)廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街、いわゆる赤線となる。1958年の 「売春防止法(昭和31年5月24日法律第118号)」の施行により、赤線は廃止され、吉原は文字通り火の消えたような町になり、店は連れ込み旅館や下宿屋、トルコ風呂(1951年に登場した個室付き特殊浴場で、1983年から「ソープランド」と改められる)等に転業していったが、やがてトルコ風呂が全盛期を迎えると、「吉原 = トルコ」のイメージが定着する。1984年に大幅に改正された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風俗営業法、風適法、昭和23年7月10日法律第122号)」により、個室付き浴場、個室マッサージ、モーテル類等(トルコ風呂、ソープランドの類)は、事実上人の活動する区域においては営業が不可能となったが、「風俗営業法」改正を受けて東京都が施行した「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例(昭和59年12月20日条例第128号」においては、吉原の実情等を考慮し、「特例地域」として、現行の建物を使用する限りは営業を継続できることになる。 
1795年 - 連邦の訴訟に関して各州の主権による免責特権を扱っている、アメリカ合衆国憲法修正第11条の批准が成立。 
1807年 - ナポレオン戦争: アイラウの戦い。 
1855年 - 日本とロシア帝国の間で締結された条約、「日本国魯西亜国通好条約(日露和親条約)」が締結される。千島列島(ロシア東部のカムチャツカ半島と北海道との間に連なる島嶼群)の択捉島と得撫島との間に国境線が引かれ、樺太(オホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島)においては国境を設けず、これまで通り両国民の混住の地とすると決められる。 
1873年 - 「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令、明治6年2月7日太政官布告第37号)」が公布され、主君や直接の尊属を殺害した者に対し、私刑として復讐を行なった、敵討(仇討ち)が禁止される。近親者を害された者は、事実を明らかにしてできるだけ早く司法官憲に訴え出ることとし、国家が法律に基づいて、被害者に代わって加害者を処罰することが規定されている。
1881年 - 石川県・滋賀県から分離して福井県を再設置。福井県と滋賀県が現在の形となる。 
1881年 - 和泉国(現在の大阪府南西部)の旧幕府領、旗本領を管轄するために設置されていた堺県が廃止され、大阪府に編入となる。
1904年 - アメリカ合衆国東部、メリーランド州ボルチモアの市街地で火災が発生する。隣接するアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.や、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク等、近隣の大都市から消防隊が駆け付けるも、消火は難航し、約36時間に亘って延焼して、約1,500棟以上の家屋が焼失する。ホースの規格が都市毎に異なり、応援に来た消防隊が、ホースと消火栓を接続することができなかったことから、これを契機に、ホースと消火栓の規格が統一され、後には、製品の「標準化」の代表例として知られるようになる。 
1927年 - 「皇室喪儀令(大正15年10月21日皇室令第11号)」に基づき、第123代天皇、大正天皇の大喪儀(天皇・皇后・上皇・上皇后・太皇太后・皇太后の葬儀)が始まる。2月7日夜に天皇の霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列が、宮城(現在の皇居)正門を出発することに始まる。宮中の伝統に従って夜間に執り行なわれたため、葬列は松明や篝火等が照らす中を進行している。大赦(国家元首の特権によって、公訴権を消滅させ、或いは刑の言渡しの効果を全部、又は一部を消滅させ 、犯罪者を許す制度である恩赦の一種で、政令により罪の種類を定めて行なうもの)137,669名、減刑46,138名。