2月5日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1862年 - アメリカ合衆国財務省が、初めて政府紙幣(「デマンド・ノート」、政府が直接発行し、通貨としての通用力が与えられた紙幣)を発行する。多くの国では、政府管轄の印刷局(日本は国立印刷局)や、印刷会社で製造した紙幣を一旦中央銀行(国家や一定の地域の金融機構の中核となる機関)に交付して、中央銀行が銀行券として流通させることが一般的であるが、現在でも、一部の国では、政府機関が直接紙幣を発行している場合がある。中華人民共和国の香港特別行政区の法定通貨である香港ドルは、香港金融管理局の監督の下で民営銀行3行が紙幣を発行しているが、10香港ドル紙幣(ポリマー紙幣)だけは、香港特別行政区政府の発行する政府紙幣である。このように、銀行券と政府紙幣の双方が発行される場合もある。現在のところ、政府紙幣を発行している国は少数に留まっているものの、中央銀行の発行する銀行券と同様に、発行と流通に際して厳しく管理されている。現在のアメリカ合衆国では、アメリカ独立戦争中の独立政府において、膨大な戦費を賄う為に、大陸紙幣と呼ばれる一種の政府紙幣を発行する。これはアメリカ合衆国建国後、地域紙幣として一時使用され続けたが、不換紙幣であり、濫発されたことから価値が暴落し、信用のない通貨の代名詞になる。1812年6月から1815年2月までの期間に、イギリス、その植民地であるカナダ、及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間で行なわれた戦争、米英戦争後の数年間と1830年にも、国内鉄道基盤整備のための投資として不換紙幣が用いられたが、1837年恐慌(1840年代まで続いた、大きな景気後退を誘発したアメリカ合衆国の金融危機で、失業率が増大する中で利潤や価格、賃金が減少した)で発行停止に追込まれる。南北戦争(奴隷制存続を主張するアメリカ合衆国南部諸州の内、11州がアメリカ合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、アメリカ合衆国に留まった北部23州との間で戦争となったもの)時には、戦費調達の必要性から、1862年にアメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンによって、法貨条例が制定され、これに基づき、総額4.5億ドルの「デマンド・ノート」を発行している。これは、アメリカ合衆国財務省が初めて発行した紙幣で、戦中に国立銀行法が制定されたこともあり、反対派(産業資本)と賛成派(農業)の利害抗争を反映して、この「デマンド・ノート」は回収されたり再発行されたりしている。南北戦争後の1865年に至って、エイブラハム・リンカーンは、「デマンド・ノート」をアメリカ合衆国の永続的な通貨発行システムとする意向を発表するが、エイブラハム・リンカーン暗殺事件により、発行は停止する。1933年、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは、ニューディール政策(1929年に始まった世界大恐慌を克服するために行なった一連の経済政策で、それまでアメリカ合衆国の歴代政権が取ってきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的に留める古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた)の一環として政府紙幣の発行を決め、政策を成功に導いたと評価されている。その後、1963年6月4日に、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディによって政府紙幣が復活するが、その約半年後の11月22日にジョン・F・ケネディは暗殺され、1971年1月以降は、政府紙幣の新規発行は行なわれていない。
1877年 - 官設鉄道(国鉄[日本国有鉄道、現在のJRグループ]の前身)東海道本線の神戸駅から京都駅まで(現在は、西日本旅客鉄道[JR西日本]の管轄)が繋がる。神戸駅から京都駅までの全線が開通したことを記念して、第122代天皇、明治天皇を迎え、鉄道開通式を実施する。東海道本線の歴史は、日本の鉄道の歴史を象徴している。1886年以降、政府の一大プロジェクトとなって、一気に建設が進んだ東海道本線は、1889年に関ケ原駅 - 米原駅 - 馬場駅(現在の膳所駅)間が開業し、新橋駅 - 横浜駅間開業から17年の歳月を経て、新橋駅から神戸駅までの600.2kmが鉄路で結ばれる。この時に全線直通列車が1往復運行され、所要時間は20時間強となる。正式な路線名称は設定されていなかったが、1895年に、東海道線」の路線名称が与えられる。但し、路線は、伊豆・箱根、伊吹山、逢坂山という交通の難所において、現在のルートが異なっている。1914年12月20日、東京駅が開業し、この東京駅が東海道本線の起点となり、同時に、東京駅 - 高島駅間で電車(現在の京浜東北線)の運行が開始されている。 大正時代になると輸送力増強のため、交通の難所においてルートの変更が必要となる。逢坂山(大津駅 - 京都駅間)では、新逢坂山トンネル・東山トンネルが新たに造られ、1921年に現在のルートになった他、伊豆・箱根地区(国府津駅 - 沼津駅間)についても別ルートを建設することとし、1925年までに国府津駅 - 熱海駅間が「熱海線」として開通したが、熱海駅 - 沼津駅間は、丹那トンネルの建設が難工事となったため、開通が遅れることとなる。1934年には丹那トンネルが開業し、国府津駅 - 沼津駅間の現在のルートが完成し、旧ルートは御殿場線と名称が変更される。1937年7月、特急列車が1日5往復体制となり、この頃が、第二次世界大戦前における東海道本線の黄金期とされる。しかし、日中戦争、そして第二次世界大戦対米英戦が始まり戦時体制下となると、様々な物資を運ぶために貨物列車が増発・長編成化されていき、特急列車は廃止されるようになり、寝台車や食堂車も消滅してゆく。また、1945年に入ると、連合国軍機による空襲や機銃掃射によって、駅や線路・車両が破壊される。第二次世界大戦対米英戦終戦後の混乱期には、電力不足や蒸気機関車を動かすための石炭も不足した上に、連合国軍専用車両の導入等もあり列車ダイヤは乱れ、一時は特急・急行や一等車・二等車が全く走らないという事態にもなり、客車不足のために、貨車による旅客輸送が行なわれたりもする。1949年に公共企業体としての日本国有鉄道(国鉄)が発足し、1956年には、東海道本線全線の電化が完成する。1964年10月1日、東海道新幹線東京駅 - 新大阪駅間が開業。当時の最速達列車「ひかり」は、両駅間を当初4時間、翌年から3時間10分で運転し、これによって東京 - 京阪神間輸送の主役は新幹線に移ったため、在来線と呼ばれるようになった東海道本線では、優等列車の多くが廃止され、代わって地域輸送主体の路線に変化している。
1885年 - ドイツ帝国の首都ベルリンで開催された国際会議、ベルリン会議で、ベルギーが領有を主張していた中部アフリカに所在するコンゴを、ベルギー王レオポルド2世の私領地(コンゴ自由国)として扱うことを決定する。 
1901年 - 官営八幡製鐵所(現在は大手鉄鋼メーカー、日本製鉄が運営している、福岡県北九州市にある製鉄所、九州製鉄所八幡地区)が操業開始。第二次世界大戦前には、日本の鉄鋼生産量の過半を製造する国内随一の製鉄所であり、2014年4月1日に小倉製鐵所(旧:住友金属工業小倉製鐵所)と統合され、小倉製鐵所は「小倉地区」として、八幡製鐵所の一部となる。官営時代から第二次世界大戦前にかけては、鋼板類や条鋼(形状が平らでない圧延鋼材)類、兵器材料の特殊鋼等、多品種の鋼材を製造していたが、第二次世界大戦後は生産品種も減少し、現在では、表面処理鋼板や電磁鋼板を始めとする薄鋼板と、一部の条鋼や鋼管の製造拠点となっている。旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場(福岡県北九州市)、遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市)の4資産が、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産として、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。