2月5日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

長崎二十六聖人殉教の日。
1597(慶長2)年2月5日(新暦[グレゴリオ暦]での日付)、全国を平定し、天下を統一することで戦国の世を終わらせ、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになっていた豊臣秀吉が、フランシスコ会(13世紀のイタリアで、中世イタリアにおける最も著名な聖人の1人とされるカトリック修道士、アッシジのフランチェスコによって創設されたカトリック教会の修道会)の宣教師6名と日本人信徒20名を、長崎で磔の刑に処した。26名の内、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、全て男性であった。日本で、キリスト教の信仰を理由に、最高権力者の指令による処刑が行なわれたのは、これが初めてのことであった。このできごとを「二十六聖人の殉教」という。26名は後にキリスト教最大の教派、カトリック教会によって聖人(他のキリスト教徒の模範となるべき偉大な信者)の列に加えられたため、26名は「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。なお、この「日本二十六聖人殉教地」は1950(昭和25)年、第260代ローマ教皇ピウス12世によって、カトリック教徒の公式巡礼地に指定され、第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も訪問している。16世紀から17世紀にかけての日本は、大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス等のヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく、植民地維持のための戦略拠点としても重視された。この時代、日本は室町時代から安土桃山時代の乱世に当たり、漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が、渡来する外国船から火薬等を調達し、大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易)。日本へは中国産硝石(染料、肥料等、製造に窒素が必要な製品の原料として、昔から用いられてきた硝酸塩鉱物の一種で、特に酸化剤[爆発時の酸素源]として黒色火薬の製造に必須の火薬材料で、黒色火薬が唯一の銃砲用火薬であった時代には、重要な戦略物資であった)、生糸、絹織物、奴隷等が入り、日本からは硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして、日本人も奴隷として輸出されていた。また、当時は、キリシタン大名(キリスト教に入信、洗礼[キリスト教徒となるために教会が執行する儀式]を受けた大名)やキリシタン(キリスト教信者)によって寺社が焼払われたり、僧侶が迫害されたり、逆に仏教を厚く信仰する大名の元では、キリシタンが迫害される事件が相次いでいた。さらに、ポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られている事例が公けとなり、ここに至って豊臣秀吉はバテレン追放令(キリスト教宣教と南蛮貿易[ポルトガルやスペイン等との貿易]に関する禁制文書)を発布した。但し、豊臣秀吉は南蛮貿易の実利を重視していたため、この時点では大規模な迫害は行なわれなかった。黙認という形ではあったが、宣教師達は日本で活動を続けることができたし、キリシタンとなった日本人が、公に棄教を迫られることはなかった。しかし、1596(文禄5)年10月のサン=フェリペ号事件(土佐国[現在の高知県]にスペインのガレオン船[帆船の一種]、サン=フェリペ号が漂着し、その乗組員の「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教と共に征服を事業としている」という意味の発言が大問題となった事件)をきっかけに、豊臣秀吉は12月8日に再び禁教令を公布した。また、カトリック教会の男子修道会の一派であるイエズス会の後に来日した、イエズス会とは別のカトリック教会の修道会の一派であるフランシスコ会の活発な宣教活動が、禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じた。捕縛されたキリスト教徒達は京都で市中引回しとなった後、長崎で処刑せよという命令を受けて長崎へ移動し、長崎にある西坂の丘の上で処刑された。捕縛されたキリスト教徒達は、キリストが処刑されたゴルゴタの丘(現在のイスラエル東部に所在する、キリスト教の聖地エルサレムにある丘)に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだという。処刑終了後、捕縛されたキリスト教徒達の遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として、世界各地に送られて崇敬を受けた。これは、ローマ・カトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それは、ルイス・フロイス(ポルトガルのカトリック司祭、宣教師で、イエズス会士として戦国時代の日本で宣教した)等の宣教師達の報告書によるところが大きい。1862(文久2)年6月8日、約31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を持つ第255代ローマ教皇ピウス9世によって「日本二十六聖人」は列聖され、聖人の列に加えられた。1962(昭和37)年には、「日本二十六聖人」列聖100年を記念して、西坂の丘に「日本26聖人」を顕彰する博物館『日本二十六聖人記念館』(建築家で、多くの建築作品と共に、教育者としても、自らの研究室から優れた建築家、研究者を多数輩出した今井兼次の設計)と、戦後日本を代表する彫刻家の1人、舟越保武による記念碑「昇天のいのり」が建てられた。1931(昭和6)年10月1日には、長編映画『殉教血史 日本二十六聖人』が公開されている。この無声映画は当時、日本統治下にあった朝鮮の京城(現在の韓国の首都、ソウル)で、牧畜事業を営んでいたカトリック信徒の平山政十が、巨額の個人資産を投入して製作した作品であり、一般向けに公開された商業映画であるが、平山政十の主導の下、多数のカトリック教会関係者の協力を得て製作された。この時期、外国人宣教師の主導体制から自立の途中にあった日本カトリック教会が生み出した、最初の本格的劇映画というべき作品である。映画の内容は、長崎で処刑された26人のキリスト教徒(日本二十六聖人)の殉教の史実に拠った物語であり、当時の代表的な時代劇監督である池田富保が演出を担当し、主演のペドロ・バプチスタ神父を山本嘉一が演じ、その他にも、片岡千恵蔵、伏見直江、山田五十鈴等が出演している。映画界とは無縁の平山政十が、教会関係者の支援を受けて製作したこの映画は、日本のカトリック信徒が、軍国主義化していく日本社会において、社会的な迫害の対象に置かれる等、困難な社会的状況に対して打開を図るべく実行されたものであり、平山政十はこの映画を、キリシタン時代に対する個人的な関心や、芸術家的欲求に促されて、製作に取組んだ訳ではない。国内の観客に向けては、江戸時代以来のキリスト教徒への偏見を払拭することを目的とし、国外の観客に対しては、日本人信徒の殉教の史実を通して、日本の対外的イメージを向上することを目指していた。平山政十の活動が、カトリック教会の置かれた困難な現状を打開する目的で行なわれたものであるだけに、昭和初期のカトリック教会が直面した苦境が、いかに対応の困難なものであったかを象徴するものになった。
聖アガタの祝日。
キリスト教の聖人アガタは、自己の信仰のためにシチリア(イタリア半島の西南の地中海に位置する、現在のイタリア領の島)の王に嫁ぐことを拒否し、そのために乳房を切取られた、と言われる。アガタは、火あぶりにされることになったが、まさに刑が執行されようとした時、地震が起きたため、処刑を免れたという。但し、アガタは、後に獄中で命を落とした。アガタは、火災から人々を守る守護聖人、また、鐘職人やパン屋の守護聖人とされてきたが、近代に入ると、乳癌患者の守護聖人ともされた。この日には、スペイン等では祭礼も行なわれる。