2月4日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0211年 - ローマ帝国皇帝セプティミウス・セウェルスが死去。セプティミウス・セウェルスの長男、カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)と次男、ゲタ(プブリウス・セプティミウス・ゲタ・アウグストゥス)が共同で帝位に就く。兄弟は全ての分野で激しく対立し、ゲタ(プブリウス・セプティミウス・ゲタ・アウグストゥス)は、カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)と結んでいた、古代ローマ軍の基幹戦闘単位であるケントゥリア(百人隊)の指揮官、ケントゥリオ(百人隊長)に刺殺される。カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)の敵意は凄まじく、弟を殺しただけでは飽き足らず、ダムナティオ・メモリアエ(名誉の抹殺)を元老院(古代ローマの統治機関)に命令している。ゲタ(プブリウス・セプティミウス・ゲタ・アウグストゥス)とカラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)を共に描いていた通貨や絵画からは、全てゲタ(プブリウス・セプティミウス・ゲタ・アウグストゥス)の姿が削り取られ、胸像は打壊される。更に、ゲタ(プブリウス・セプティミウス・ゲタ・アウグストゥス)に好意的であった貴族や元老院議員にも粛清の手は及び、亡父セプティミウス・セウェルスの重臣を含めた大勢の人間が処刑されている。ローマ史上に残る暴君の1人として記憶されるカラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)は、一方で、属州(本国以外の領土)の全自由民に、ローマ帝国の国民としての権利と義務(市民権)を与えるアントニヌス勅令を決定し、結果的に、ローマ領内における民族・人種による出自差別を撤廃したことで知られる。しかし、市民権の乱発は、ローマ市民をして国家への忠誠心、義務を失わせ、集団としての連帯感が薄れ、結果的には帝国の滅亡の遠因となっている。他に、銀貨の改鋳(銀の含有量を減らした)、大浴場(カラカラ浴場)の建設等を、肯定的に評価する歴史家も存在する。18世紀後半のイギリスの歴史家、エドワード・ギボンは、カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)の治世を「人類共通の敵」とまで痛罵しているが、その暴政が本格化するのは、東方属州へ移住した213年からとなる。従って、カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)の横暴を一身に受けたのは、殆どが東方属州の諸都市・諸地域であり、カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)の残りの治世は、これらの地域に対する略奪と虐殺に費やされたと言って過言ではない。カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)は、軍権力を重視した父セプティミウス・セウェルスの政策を踏襲して、軍事費の増加や兵士の給与増を推進し、自ら兵士達と食事を取ったり、陣地建設で資材を運ぶ等のパフォーマンスを積極的に見せて兵士達~の信頼を勝ち取る。軍の力を味方に付けることに成功し、民衆や貴族を弾圧する権力基盤を整えたが、軍事費の著しい増大は、父セプティミウス・セウェルス時代より益々深刻になり、帝国の財政にとって大きな負担になっている。217年4月8日、アルサケス朝パルティア(古代イランの王朝で、西アジアの広い範囲を支配下に置いた)との戦争準備として、エデッサ(現在のトルコ南東部の都市で、アナトリア[現在のトルコ]から北部メソポタミア[現在の中東・西アジアに位置するイラクの一部に当たる]に至る、古代からの街道が通る戦略的要衝である)に入城したカラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)は、護衛を務めていたユリウス・マルティアリスというプラエトリアニ(皇帝を守るために組織された直属の精鋭部隊で、日本語では「近衛隊」「近衛軍団」「護衛隊」「親衛隊」と訳される)に刺殺される。暗殺理由は個人的なもので、数日前に、同じプラエトリアニであった親族が、無実の罪で処罰されたことに対する復讐であったとされる。隊列から離れ、1人で用を足していたカラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)は、その暴政から考えれば呆気ない最期を迎える。カラカラ(ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス)には、子息や他の男系子孫もいなかったため、プラエトリアニの長官マクリヌス(マルクス・オペッリウス・セウェルス・マクリヌス・アウグストゥス)が帝位請求者に名乗りを上げ、元老院は帝位を承認している。  
0960年 - 軍人の趙匡胤が皇帝に即位。中国の王朝、宋(北宋)が建国される。 
1789年 - 北アメリカ大陸に設立されたイギリス領植民地、バージニア植民地(現在のアメリカ合衆国東部、バージニア州)に生まれ、陸軍軍人から政治家となったジョージ・ワシントンが、初代アメリカ合衆国大統領に選出される。アメリカ合衆国において、最初の大統領選挙が行なわれたこの時、選挙人を選出する方法の決定は、各州に任されている。全13州の内、10州のみが、選挙人団の投票を行ない、また、それらの10州の内、5州のみが、大統領選出の為、一般投票を行なう。選挙人投票率100%の票を得た大統領は、現在までジョージ・ワシントンだけである。  
1794年 - フランス立法府が、フランス共和国の全領域において奴隷制度を廃止。 
1807年 - ナポレオン戦争: アイラウの戦いが始まる。 
1859年 - ユダヤ教、及びキリスト教の正典である『旧約聖書』の一部(七十人訳聖書)と、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒達によって書かれた文書で、『旧約聖書』と並ぶキリスト教の正典『新約聖書』の殆どを含む聖書の写本の1つ、シナイ写本が、アフリカ大陸北東部に所在するエジプトで発見される。 
1861年 - アメリカ合衆国から離脱した南部の6州が、アメリカ連合国の結成を宣言。 
1868年 - 神戸事件(備前事件)。三宮神社(現在の兵庫県神戸市中央区三宮町に鎮座する神社)前で、備前国岡山藩藩兵が、隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させた上、居留地(現在の兵庫県神戸市中央区に所在する旧居留地)予定地を検分中の欧米列強諸国公使らに水平射撃を加える。これに、当時のイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫(神戸)開港を祝って集結していた欧米列強諸国艦船に緊急事態を通達、神戸に領事館を持つ欧米列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸の中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕する等の動きにまで発展する。岡山藩藩兵隊の責任者が切腹することで一応は解決するが、明治政府初の外交問題となる。 
1899年 - 米比戦争(アメリカ合衆国とフィリピンの間で起きた戦争)が始まる。1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争、米西戦争では、勝利の暁に独立させると約束された、フィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携し、スペイン軍を攻撃する。独立軍は兵力1万を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、エミリオ・アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言し、暫定政府を組織する。スペインの敗退後、フィリピンの統治はアメリカ合衆国が握ることとなったが、これは独立運動側からすると不満な結果であり、独立運動の対象はスペインからアメリカ合衆国へ移り、米比戦争へ繋がることとなる。 1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国される。アメリカ合衆国は、フィリピン側にとって同盟者ではなく、支配者になったと見られたため、フィリピン兵とアメリカ兵の関係は極度に緊迫し、アメリカ合衆国支配側に立入ったとされるフィリピン兵が射殺されたことをきっかけとして、戦端が開かれる。アメリカ合衆国からは、8月14日に約11,000名の地上部隊が、フィリピンを占領するために送られる。この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、陸軍准将のアーサー・マッカーサー・ジュニアで、その三男が、第二次世界大戦対米英戦開戦時、在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官であった、ダグラス・マッカーサーである。1902年7月4日、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが、戦争終結の公式声明を発表し、アメリカ合衆国は、フィリピン人による傀儡政権を成立させている。