2月3日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

大豆の日。
節分の日には煎った大豆をまいて邪気を払い、撒いた大豆を年の数だけ食べて無病息災を願う風習から、東京都品川区東品川に本社を置き、水産加工品の製造と販売や、漁業資材、農業資材、食品加工機械、建装材、包装資材、健康食品の販売等を手掛ける企業、ニチモウ株式会社(1999[平成11]年に、大豆のもつ有効成分であるイソフラボンの研究等を行なうバイオティックス事業が分社化され、ニチモウバイオティックス株式会社となる)が制定。節分となることの多い2月3日を、その記念日とした。東アジアを原産地とするマメ科の一年草、大豆の完熟種子は、主に搾油植物から油脂を搾り取ること)の原料となり、脱脂後の絞り粕(大豆粕)は、飼料として利用されている。食用にもなり、特に東アジアでは、様々な利用形態が発達している。未成熟の種子を枝豆と呼ぶ。農作物として世界中で広く栽培され、日本には、縄文時代に存在したと思われる大豆の出土例があり、712(和銅5)年に編纂された日本最古の歴史書である『古事記』にも、大豆の記録が記載されている。大豆は、植物の中では唯一、肉に匹敵するだけのたんぱく質を含有する特徴から、近年の世界的な健康志向の中で、「ミラクルフード」として脚光を浴びている。日本やドイツでは「畑の(牛)肉」、アメリカ合衆国では「大地の黄金」とも呼ばれている。また、日本料理やその調味料の原材料として、中心的役割を果たしている。菜食主義や殺生を禁じた宗教においては、植物性のたんぱく源として利用され、精進料理(仏教の戒律に基づき、殺生や煩悩への刺激を避けることを主眼として調理された料理)においても重用されたことで、多くの加工食品が生み出された。加工食品の技術が上がるにつれて、肉を模した代替食品としても注目されている。日本では色々な形に加工され、利用されている。まず、大豆を暗所で発芽させるとモヤシ、未熟大豆を枝ごと収穫し茹でると枝豆、さらに、育てて完熟すれば大豆となる。大豆を搾ると大豆油、油を絞った粕は大豆粕として食用・醤油製造や飼料へ、煎って粉にするときな粉、蒸した大豆を麹菌と耐塩性酵母で発酵させると醬油・味噌、また、蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆となる。熟した大豆を加水・浸漬・破砕・加熱したものを搾ると、液体は豆乳、その残りはおから、豆乳を温めた時に液面に形成される膜を湯葉、にがりを入れてたんぱく質を固めると豆腐、豆腐を揚げると「油揚げ」「厚揚げ」、焼くと「焼き豆腐」、凍らせて「凍み(高野)豆腐」となる。大豆イソフラボンは元々、大豆の胚軸(生長すると芽になるところ)部分に多<含まれる抗酸化物質の一種で、細胞にダメージを与える「活性酸素」の働きを抑えてくれる他、女性ホルモン「エストロゲン」(卵胞ホルモン)に似た働きをし、女性の美しさや若々しさを手助けしてくれるという。
ササミ巻きガムの日。
「Petio(ペティオ)」等のブランドでペットケア事業等を展開する企業、株式会社ヤマヒサが制定。ワンちゃんのおやつとして、2000(平成12)年2月から発売をしている人気商品の「ササミ巻きガム」を、より多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、節分に食べると縁起が良いとされる恵方巻きに習い、ワンちゃんの無病息災を願って、「ササミ巻きを丸かぶり」をワンちゃんの恵方巻きとして、お客様に届けたいと、節分になることが多い2月3日に。「ササミ巻き」には、「やわらかガム」「長持ちガム」「やわらか牛すじ」「さつまいも」「バナナ」等、様々な種類がある。2016(平成28)年12月、「ササミ巻き」の販売本数は累計10億本を突破した。なお、リフォームや建築等の事業を手掛ける株式会社ヤマヒサは、2016(平成28)年10月1日、ペットケア事業部を会社分割で「株式会社ペティオ」(本社所在地は、東京都港区芝、本店所在地は、大阪市淀川区宮原)として独立させた。 
光悦忌。
江戸時代初期の書家・陶芸家・芸術家、本阿弥光悦の1637(寛永14)年の忌日(旧暦)。書は寛永の三筆の1人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。ほぼ同時期に活躍した、画家の俵屋宗達、尾形光琳と共に、琳派(大和絵の伝統を基盤として、豊かな装飾性・デザイン性を持ち、絵画を中心として書や工芸を統括する総合性、家系ではなく私淑による断続的な継承、等が特質の造形芸術上の流派)創始者として、本阿弥光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。陶芸では、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で、一般的には茶人古田織部として知られる古田重然の影響を受け、作為的な造形に特徴がある陶工(陶芸家)、楽常慶に習ったと思われる楽焼(手捏[てづく]ねで成形し、比較的低い火度で焼成する陶器の1つ)の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱等が知られるが、特に、漆工品等は、本阿弥光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない。本阿弥光悦は、現在の京都市北区南西部に位置する、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。1615(元和元)年、本阿弥光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人等の法華宗徒仲間を率いて移住した。本阿弥光悦の死後、その屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっており、本阿弥光悦の墓地も光悦寺にある。  
雪池忌(ゆきちき)。
豊前国中津藩藩士・蘭学者・著述家・啓蒙思想家・教育者・慶應義塾創設者、福沢諭吉の1901(明治34)年の忌日。墓のある浄土真宗関東七大寺の1つ、麻布山善福寺(現在の東京都港区元麻布に所在する)で、塾長以下、学生等の慶應義塾の関係者達による法要が、毎年行なわれている。1907(明治40)年、「近世の教育に功績ある故教育家の代表者」として顕彰された6名の教育家、明治六大教育家の1人として列される福沢諭吉は、慶應義塾等を創立した他、法学・経済学を中心に、幅広い思想家として著名である。元々、苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では、「福澤諭吉」と表記されることもあるが、「福沢諭吉」との表記が一般的である。なお、「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。福沢諭吉は、若年の頃より立身新流(表芸を刀術[居合 剣術]としながらも、柔術、鎗、長刀、棒、捕縄、四寸鉄刀[手裏剣]、物見[測量、和算]、集団戦闘法、弓、馬術等、戦国時代の戦闘体系の流れが包括されている武術)居合(日本刀を鞘に収めた状態で帯刀し、鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか、相手の攻撃を受流し、二の太刀で相手に止めを刺す形、技術を中心に構成された武術)の稽古を積み、成人の頃に免許皆伝を得た達人であった。但し、福沢諭吉は、急速な欧米思想流入を嫌う者から、幾度となく暗殺されそうになっているが、斬り合うことなく逃げている。無論、逃げることは最も安全な護身術であるが、福沢諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として、殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら、生涯人を斬ったことが無かった、江戸幕府幕臣・政治家の勝海舟や、江戸幕府幕臣・政治家・思想家、山岡鉄舟の思想との共通性が窺える。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、福沢諭吉の言と誤解されることが多いが、福沢諭吉の著書の1つで、代表作である『学問のすゝめ』冒頭には、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり(言われている)」と書かれており、正しくは福沢諭吉の言ではない。出典元は諸説あるが、アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンによって起草されたと言われる、アメリカの独立宣言の一節を意訳した、との説が有力である。