1月31日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第5水曜日 旧暦 12月21日、友引(甲午)、月齢 19.6  
グレゴリオ暦で年始から31日目、年末まであと335日。
誕生花 チューリップ(赤)・マンサク・オジギソウ・クロッカス・サフラン(黄)・柾。

晦日正月、晦日宵、初晦日、晦日節。
正月最後の日で、現在では新暦の1月31日となる。また、新年の季語でもある。1月15日の小正月は、年が明けて最初の満月の日。1月20日の二十日正月は、正月に迎えた神様がそれぞれの場所に帰ってゆく日。そして、1月最後の晦日正月は、新月で月が隠れる日とされ、それぞれが大切な意味をもっているという。この日に、松の内に年始回りをしなかった家を訪ねる地方や、団子を作って家の戸口に挿す晦日団子の習慣がある地方等、それぞれの地域で様々な形で正月を締め括る。新潟県南部の十日町地方では、大晦日に年越し蕎麦を食べず、この日に食べる。また、岩手県や宮城県地方では、蔦の正月と称し、神前や門口に蔦を飾る。 
五つ子誕生の日。 
1976(昭和51)年1月31日、鹿児島市立病院で五つ子(男児2名、女児3名)が誕生したことによる。父は、日本放送協会(NHK)政治部記者であった山下頼充。京都市東山区清水にある、「清水の舞台」とも呼ばれる本堂(国宝)で知られる寺院、清水寺の大西良慶貫主が名付け親となった。乳児達は元気ながら、体重は990gから1,800gで、普通児の半分程度であった。3名の医師が、長椅子に交代で寝ながら五つ子の治療に当たった。五つ子の誕生に日本中は大騒ぎとなり、全国から祝福の声が寄せられた。新聞には連日、五つ子の体重が掲載され、その体重の増減に、世間は一喜一憂した。この五つ子誕生は、不妊症の治療として使用された排卵誘発剤(生殖内分泌医療に使われる薬剤)によるものであった。1982(昭和57)年4月7日、日本放送協会(NHK)のドキュメンタリー番組、NHK特集『一年生になりました―五つ子6年間の記録』が放送された。また、長女が東京大学に進学したことでも話題となった。これ以前にも、1901(明治34)年11月1日、福島県伊達郡粟野村(福島県伊達郡梁川町を経て、現在は福島県伊達市となっている)で生まれた五つ子(全員が4日後、5日後に死亡)等、数例があり、正確には「日本初の五つ子」ではないが、5名全員が順調に成長したことは異例であった。日本の多胎児の古い記録としては、讃岐国丸亀藩の正史『西讃府誌』に、1705(宝永2)年、丸亀藩で六つ子が生まれた、と記されていることが知られている。多胎児について、世界では、オーストラリアの九つ子、メキシコの八つ子、スウェーデン、ベルギー、アメリカの七つ子が知られている。  
愛妻の日。 
群馬県吾妻郡嬬恋村大字大前に総本部を置く日本愛妻家協会が、2006(平成18)年に制定。1月の「1」を「I」に見立て、31日の「31」と組合わせて、「愛妻(あい[I]さい[31])」の語呂合わせから。群馬県の西端に位置する嬬恋村は、夏の冷涼な気候を活かした高原野菜の栽培が盛んで、高原キャベツの産地として知られる。村名の「嬬恋」は、記紀(奈良時代に編纂された日本の神話や古代の歴史を伝えている重要な歴史書、日本最古の歴史書『古事記』と、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』との総称)等に伝わる古代日本の皇族、日本武尊が東征の帰路、鳥居峠(長野県上田市と群馬県吾妻郡嬬恋村)の間の峠に立ち、海の神の怒りを静めるために海に身を投じた、愛妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)を「吾嬬者耶(あづまはや)」と追慕した古事に因む。なお、郡名等の「吾妻」も、同じ古事に因んでいる。
愛妻感謝の日。
神奈川県相模原市中央区相模原に事務局を置く、愛妻感謝ひろめ隊が制定。1月31日を「愛妻(あい[I]さい[31])」と読み、この日とした。「愛妻感謝を通じて夫婦愛を深め、そして関わる人達すべてを"HAPPYにする活動"を広げよう」がスローガン。一番身近にいる妻に対して、感謝の気持ちを伝えることはなかなかできないもの。この日が、感謝の気持ちを伝えるきっかけの日になれば、との思いが込められている。また、1月31日から2月12日までを、愛妻感謝期間とすることも提唱している。
愛菜の日。 
「野菜を愛する日」を「愛菜(あいさい)の日」と名付け、野菜の摂取量が少なくなり勝ちな時期の1月から2月に、もっと野菜を食べて、健康的な食生活を送ってもらいたいと、愛知県名古屋市中区錦と東京都中央区日本橋浜町に本社を置き、野菜ジュース「野菜生活100」等を手掛ける、調味食品、保存食品、飲料等、食品の製造、販売を行なう大手総合メーカー、カゴメ株式会社が制定。日付は、時期的なことと、1月31日の「1」を「アイ = 愛」、「31」を「サイ = 菜」と読む語呂合わせから。「野菜生活100」は、1995(平成7)年に、野菜をみんなにおいしく、もっと手軽に摂ってほしい、という思いから誕生した。それから20年以上、多くの人に愛され、野菜ジュース(野菜を磨り潰す等してジュースにしたもの)は国民健康飲料として定着した。カゴメ株式会社は、トマト加工事業では国内最大手としてその名を知られており、1933(昭和8)年に国内初のトマトジュースを発売し、カゴメ株式会社の根幹を支える製品として、現在に至るまで発売され続けている。1966(昭和41)年には、ガラス瓶ではなく合成樹脂製チューブに入れたトマトケチャップを、世界で最初に発売した。また、野菜ジュースや植物性乳酸菌飲料等の健康系飲料も、早くから手掛けてきた。カゴメ株式会社の創業者、蟹江一太郎は、「トマト王」とも称される。愛知県の農家の長男として出生した蟹江一太郎は、陸軍での3年間の兵役を務め上げ、除隊の折り、上官から西洋野菜の栽培を勧められ、1899(明治32)年にトマト等の西洋野菜の栽培に着手する。後に、西洋野菜を販売するも、トマトが全く売れず頭を悩ませたが、欧米では、生より加工し、ソースとして使用することを知り、1903(明治36)年には、トマトソース(現在のトマトピューレ)の製造を始めた。1906(明治39)年、自宅敷地内に工場を建設し、本格的な生産を開始する。1908(明治41)年、トマトケチャップやウスターソースの製造を開始し、1914(大正3)年には、成田源太郎、蟹江友太郎との共同出資により、愛知トマトソース製造合資会社(現在のカゴメ株式会社)を設立した。第二次世界大戦後の1949(昭和24)年、愛知県の物流企業5社と合併し、名古屋に愛知トマト株式会社を設立した。1963(昭和38)年には、社名をカゴメ株式会社と改称し、1971(昭和46)年、本社機能の一部(総合企画室、宣伝部門他)を東京へ移転した。蟹江一太郎は、陸軍除隊の際に、上官から受けた助言が成功のきっかけとなったことから、その恩を忘れないために、陸軍の象徴である五芒星(5つの角を持つ星マークの内、互いに交差する、長さの等しい5本の線分で構成され、中心に五角形が現れる図形)を商標として使おうと考えていたが、陸軍を連想させるために許可されなかった。このため、六角の星に改変したが、「星型は認められない」という理由で却下された。そこで、三角形を2つ組合わせ、六芒星にすることで、これが収穫時に使う籠を編んだ時の目(籠目)印である、ということで商標が認められた。1963(昭和38)年に社名をカゴメ株式会社と改称した際、商標は籠目の付いたトマトマークとなった。1983(昭和58)年には、商標から籠目とトマトマークは姿を消し、2003(平成15)年からのロゴにはトマトが描かれている。黄色は「光・果実」、緑は「自然・野菜・さわやかさ・やすらぎ」、赤は「太陽・トマト・エネルギー」を象徴している。