1月27日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0098年 - 子息を持たず高齢であった第12代ローマ皇帝ネルウァ(マルクス・コッケイウス・ネルウァ)の死去により、軍の支持を集めた上流貴族出身の軍人、トラヤヌス(マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス)が第13代ローマ皇帝に即位する。イタリア本土出身者でない、初の属州(本国以外の領土)生まれの皇帝となったトラヤヌス(マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス)は、文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功し、特に、対外面では、ダキア(古代中央ヨーロッパの一地域で、ほぼ現在のルーマニアの国土に相当する)・パルティア(現在の中東に所在するイランを中心とした地域)で功績を挙げ、ローマ帝国史上最大の版図を現出させて、同時代から現在に至るまで、優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主達からも讃えられている。
0661年 - アリー・イブン・アビー=ターリブの死去により、イスラーム教正統カリフ時代が終焉する。正統カリフ時代とは、イスラーム教の開祖であるムハンマド(マホメット)の没後、4名のカリフ(イスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)が治めた時代である。 
1142年 - 中国南宋の武将岳飛が、宰相(君主を補佐した最高位の官職)秦檜により謀殺される。 
1186年 - 西ヨーロッパの歴代ローマ皇帝の中でも有能なことで知られ、後世では英雄とまで呼ばれた、ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国初代皇帝フリードリヒ1世の次子で、後のホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国第2代皇帝ハインリヒ6世が、後にシチリア王国(現在のイタリア南部を支配していた王国)の女王となるコスタンツァ・ダルタヴィッラと結婚する。 
1587年 - 羽柴秀吉が太政大臣(律令官制の太政官制における最高職)に任じられ、豊臣の姓を名乗るようになる。羽柴秀吉は平氏を称していたが、1585年7月、関白に就任するに当たり、織田信長との親交が深かった前関白、近衛前久の猶子(兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度)となり、平氏から藤原氏に改めている(藤原氏以外の関白叙任に前例がなく、藤原氏でなければ関白にはなれない、とされていたため)。その後、羽柴秀吉は、さらに「豊臣」氏に改める。「豊臣」の語源については諸説あるが、いずれも推測の域を出ず、信ずるに足りない。なお、成人の天皇を補佐する官職、関白と太政大臣は兼任されていたことが多い。羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、太政大臣を頂点とする独自の武家官位制を構想していたものと考えられるが、その実態は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の死と豊臣家の滅亡により、永遠の謎となる。豊臣姓は、天皇が臣下のために新姓を創設した最後の例となっている。よく誤解されるが、秀吉は、「羽柴」という苗字を「豊臣」に改めたのではない。これは、現代人が氏と苗字を区別する習慣を失い、両者を混同することから来る錯誤である。「羽柴」は、単なる私的な名乗りである名字(苗字)に過ぎないが、「豊臣」は、天皇が創始し、朝廷の手続きを踏んで公式に下賜された氏である。氏と苗字は、厳密に異なる存在であり、互換不能であり、交換できない。秀吉が「豊臣」に改めたのは、あくまで関白叙任の際に得ていた「藤原」の氏であり、苗字は改姓の記録が見当たらず、従って、羽柴姓のままであったと考えられる。しかし、この錯誤は一般に広く浸透しており、例えば、国民的歴史作家とされる司馬遼太郎も「大和大納言(豊臣家の人々)」の文中で、「羽柴の姓を豊臣に改め」等と、(便宜的表現とはいえ)読者の改姓への錯誤を前提とした表現を用いている。
1593年 - ポーランドの天文学者、ニコラウス・コペルニクスの地動説を擁護したイタリアの修道士で哲学者、ジョルダーノ・ブルーノが、ローマの異端審問所に引渡される。ジョルダーノ・ブルーノは、約7年間に亘って獄中に留め置かれた末に、1600年にその異端審問が開始され、異端との判決を受けても、決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられる。 
1618年 - 江戸城の大奥(江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中[御殿女中]達の居所)を男子禁制とする。 
1785年 - アメリカ合衆国初の公立大学、ジョージア大学(アメリカ合衆国南東部、ジョージア州アセンズに本部を置くアメリカ合衆国の州立大学)が開学。 
1838年 - アメリカ合衆国で、チェロキー族インディアン(現在のアメリカ合衆国北部や中西部に先住する部族)に対する強制移住措置が実行される(「涙の道」)。この時、約15,000名いたチェロキー族の、約4,000名が途上で死亡している。 
1868年 - 戊辰戦争: 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争(明治新政府が、日本を統治する政府として国際的に認められることとなった内戦)の緒戦となった戦いで、約3倍の兵力差はあったが、新政府軍が旧幕府軍を敗走させる。旧幕府軍の総大将、徳川慶喜が、僅かな側近らと共に江戸へ退却したため、旧幕府軍は継戦意欲を失い、各自江戸や自領等へ帰還している。 
1869年 - 江戸幕府幕臣で幕府海軍軍艦頭並の榎本武揚らが、箱館(現在の北海道函館市)で蝦夷地(渡島半島周辺を除く現在の北海道[十州島]を中心に、樺太と千島列島を含む)の領有を宣言。いわゆる蝦夷共和国が発足する。旧江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」ではあったが、「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また、独立主権国家たると宣言した訳でもない。さらに、主権的な独立や地方割拠を目論んだ訳ではないため、「政権」や「共和国」等の呼称は適切ではなく、その目的や内実からみると、「旧徳川将軍家遺臣による蝦夷地開拓団」で、成立から約半年後には解体されている。 
1888年 - アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で、『ナショナルジオグラフィック協会(地理学の普及を目指した33名のメンバーによって設立された団体)』が創設される。 
1889年 - ブーランジェ将軍事件。フランス北部、セーヌ県の下院補欠選挙で、陸軍軍人のジョルジュ・ブーランジェが、共和各派の推した統一候補に大差を付けて当選。 
1890年 - 代表的な各種学校となっていた慶應義塾が大学部を設置。 
1915年 - アメリカ合衆国海兵隊が、南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域洋上の西インド諸島にあるハイチを占領する。その後、アメリカ軍は1934年まで軍政を続ける。 
1918年 - 北ヨーロッパに位置するフィンランドで、フィンランド内戦が開戦。 
1918年 - アメリカで、作家のエドガー・ライス・バローズによるSF冒険小説『ターザン・シリーズ』の初の映画化作品『ターザン』が公開される。ターザンは、アメリカの作家エドガー・ライス・バローズが創造した、架空のキャラクターである。小説ターザン・シリーズ、及び映画化作品の主人公を務めるが、脇役として登場することもある。小説版でのターザンは多くの映画と違い、知的な面を持っている。端的には、複数の言語を自在に操る。また、文明批判の目も厳しい。ターザンは野生児として育ったが、本名はグレイストーク卿ジョン・クレイトン。イギリス人であり、その称号の示す通り貴族である。但し、命名されていないため、本名は父親の名をそのまま受継いでいる。映画のターザンは、陽性のヒーローとして登場する。ジャングルの王者として君臨し、密猟者や秩序を乱す猛獣に鉄槌を下す。また、多くの場合、言語に不自由で、片言しか(英語、又は人間の言葉を)喋れない。マスコットとして、「チータ(チーター)」というチンパンジーを連れている場合もあるが、原作には登場していない(そもそも、チンパンジーが登場しない)。但し、それに類する小猿は登場しており、「ンキマ」という小猿が複数回、登場している。アメリカの俳優エルモ・リンカーンが主演したアメリカのサイレント映画『ターザン』(1918年)を皮切りに、数多くの映画が製作され、ターザンの名は一躍有名になる。中でも、アメリカ映画『類猿人ターザン』(1932年)を始めとする、オーストリア・ハンガリー帝国出身で、アメリカ合衆国で活躍した水泳選手・俳優、ジョニー・ワイズミュラーのターザンは有名である。ジョニー・ワイズミュラーは水泳の金メダリストであり、元は俳優ではなかったが、そのぎこちなさ故に、野生児としてのターザンはハマリ役となる。
1926年 - スコットランドの電気技術者、ジョン・ロジー・ベアードが、初めてテレビジョンによる視覚電信を実演する。