1月27日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4土曜日 旧暦 12月17日、仏滅(庚寅)、月齢 15.6  
グレゴリオ暦で年始から27日目、年末まであと339日。
誕生花 ホルトソウ・ナナカマド・ヘリオトロープ・デージー(紫)・プルメリア。

国旗制定記念日。
一般社団法人国旗協会が制定。1870(明治3)年1月27日(旧暦)、「郵船商船規則(商船規則、明治3年1月27日太政官布告第57号)」により、日本の国旗(日の丸、日章旗)のデザインの原型が決まったことに因む。東京都千代田区丸の内に所在する一般社団法人国旗協会は、国を象徴する国旗の正しい理解と普及を目的に掲げている法人で、1966(昭和41)年6月28日に設立されている。なお、「郵船商船規則(商船規則)」は、1999(平成11)年8月13日に公布・即日施行された「国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法、平成11年8月13日法律第127号)」により廃止となる。日本の国旗は、法律上は日章旗と呼ばれ、日本では古くから、また、今日一般的に、日の丸と呼ばれる旗である。旗の形は、縦が横の3分の2の長方形で、日章の直径は縦の5分の3で、中心は旗の中心、色地は白色、日章は紅色とされている。但し、上下・左右対称で方向性はない。日本人の古代信仰として古神道に分類される原始宗教では、自然崇拝・精霊崇拝を内包しており、特に、農耕や漁労において太陽を信仰の対象としてきた。第33代天皇、推古天皇の時に、摂政・皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)が中国隋朝の皇帝、煬帝へ「日出處天子…」で始まる国書を送っている。また、飛鳥時代末期(8世紀初頭)に国号を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。この太陽を象った旗を用いるようになったのは、645(大化元)年の大化の改新以後、天皇による親政が確立された頃からと考えられる。世界中で歴史的に太陽が赤で描かれることは少なく、太陽は黄色、又は金色、それに対して月は白色、又は銀色で表わすのが一般的である。日本でも、古代から赤い真円で太陽を表わすことは一般的ではなかったと思われる。日本で「白地赤丸」が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり、正確には不明である。一説には、源平合戦の結果が影響していると言われている。平安時代まで、朝廷の象徴である錦の御旗は赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてある。平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰広げた。古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから、日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗に因んで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると、代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。 なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。また、民俗学的にハレとケの感覚(ハレ = 赤、ケ = 白)にあるとする説もある。江戸期には、「白地に赤丸」は意匠の1つとして普及していた。江戸時代の絵巻物等にはしばしば、白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に、日本絵画史上最大の画派である専門画家集団、狩野派等も赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には、縁起物の定番として認識されるに到っていた。江戸幕府は公用旗として使用し、初代将軍徳川家康ゆかりの熱海(現在の静岡県熱海市)の湯を江戸城まで運ばせる際に、日の丸を立てて運ぶ等した。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。18世紀末から19世紀にかけて、ロシアの南下政策を警戒した幕府が蝦夷地(渡島半島周辺を除く現在の北海道[十州島]を中心に、 樺太と千島列島を含む)天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船等)も、日の丸を印した旗や帆を使用していた。1854(嘉永7/安政元)年3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(「日本惣船印」)を制定する必要が生じ、日の丸を当てることが同年7月9日、老中阿部正弘により布告された。1859(安政6)年、江戸幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて、日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのは、これが最初である。「郵船商船規則(商船規則)」では、江戸幕府による「御国総標」を継承して日本船の目印として採用した。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、法令として存在しなかった。1945(昭和20)年、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、商船旗(商船を始めとする民間の船において、国籍・用途を示すために掲揚される旗)としては国際信号旗の「E」の旗に基づいた旗が代用された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949(昭和24)年1月1日に連合国軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に、日章旗の自由掲揚が認められるようになった。平成初期から、学校の入学式卒業式における日章旗掲揚に係わる問題が頻発した。この問題に対処するため、1999(平成11)年には「国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)」が公布され、日の丸、日章旗が正式に国旗として定められた。国家を象徴する旗、国旗は、学校、議会、裁判所や国際的な会議等の公的行事や、公的機関で掲揚され、また、その国の国民によっても掲揚される。さらに、船舶や軍隊の所属を表わすことにも使用される。国家的な弔意を示す場合には、これを半旗(弔意を表わすために、旗竿の半分程度の位置に掲げる旗)、又は弔旗(喪章[黒いリボン等]を付けて掲揚される旗)にする。歴史的には、戦場での所属を表わすものとして使われた、軍旗に起源を持つ。軍事的な意味から離れて、所属する国家を表わすために旗を掲揚する習慣は、船舶の所属を示すための商船旗として、17世紀初期頃に始まった。18世紀終わり頃から、各国のナショナリズム的意識の高まりによって、国民の間でも、国旗を掲揚することが望まれるようになった。多くのヨーロッパの国では、中世の軍旗を元にして、19世紀中頃から20世紀初頭までに国旗を制定した。旭日旗は、太陽、及び、太陽光(旭光)を意匠化した旗である。「旭日」の意匠自体は、比較的古くから広く親しまれており、一部は「日足(ひあし)」と呼称され、武家の家紋として用されていた(「日足紋」)。旭日には、古来から幾つもの種類があり、光線が四方八方に雲なく広がる意匠は、ハレを表現し、慶事等の際にめでたさや景気の良さを強調するために用いられていた意匠でもあった。また、紅白の組合わせも、同じく日本において、古くよりハレを意味し、縁起物として多用されていたものであった。その旭日と紅白を意匠とし、日章旗を基に、白地に太陽光を表わす赤系の光線(旭光)を用いたものが「旭日旗」であり、1870(明治3)年に大日本帝国陸軍の旗章たる「陸軍御国旗(軍旗)」として考案・採用され、法令上初めて制定されたものが、旭日旗の起源である。これに遅れて、1889(明治22)年には、大日本帝国海軍においても、軍艦旗として旭日旗を採用した。第二次世界大戦後においては、1954(昭和29)年の自衛隊の発足に伴ない、陸上自衛隊において「自衛隊旗」、海上自衛隊において「自衛艦旗」として、旭日旗が採用されている。この陸軍御国旗として考案された旭日旗は、光線が16条(十六条旭日旗)であるが、いわゆる旭日旗全体では、他にも、4条・8条・12条・24条等、光線の本数が多彩に亘るものが存在しており、これらも統一して旭日旗と称される。