1月25日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1077年 - カノッサの屈辱。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世による教会破門の許しを乞うため、現在のイタリア北東部にあるカノッサ城の門前で立ち始める(3日後に赦免)。 
1327年 - エドワード3世がイングランド王に即位。エドワード3世は、貴族や議会と基本的に良好な関係を維持して安定的な治世を築き、商工業を振興し、海軍の再編成に努めている。治世前半は軍事的成功を収めることが多いながらも、後半はフランスから得た領土の大半を失う等、芳しくなかったが、当時のイングランドの国力から見て、相応以上の成果を上げ、近隣諸国に「イングランド王国あり」という認識を与えた王となる。 
1533年 - イングランド王ヘンリー8世が、2人目の妻アン・ブーリンと結婚。 
1573年 - 三方ヶ原の戦い。遠江国の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市中央区に所在)で、武田信玄軍と徳川家康・織田信長連合軍が戦い、武田信玄軍が勝利する。対立関係にあった相模国(現在の神奈川県の大部分に相当)を本拠とする後北条氏と和睦して、後顧の憂いを絶った武田信玄は、当時の武田氏の最大動員兵力、約3万の軍勢を率いて西上作戦を開始する。徳川家康方の動員兵力は最大でも約1万5,000で、武田方の別動隊への対応のため、武田信玄軍を迎え撃つために動員できた兵力は約8,000に過ぎず、盟友の織田氏は、いわゆる信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であり、織田氏からの援軍も少数に留まっている。当初、徳川家康の本城、浜松城への籠城作戦に備えていた徳川家康・織田信長連合軍は、武田信玄軍が浜松城を素通りして、その先にある三方ヶ原を目指していると考える。徳川家康は、一部家臣の反対を押切って、籠城策を変更し、武田信玄軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田氏からの援軍を加えた連合軍を率いて、浜松城から追撃に出る。徳川家康・織田信長連合軍は三方ヶ原台地に到着するが、武田信玄軍は魚鱗の陣(中心が前方に張出し、両翼が後退した陣形)を敷き、万全の構えで待ち構える。眼前にいる筈のない敵の大軍を見た徳川家康は鶴翼の陣(両翼を前方に張出し、「V」の形を取る陣形)で応じ、両軍の戦闘が開始される。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた徳川家康・織田信長連合軍は武田信玄軍に撃破され、日没までの僅か2時間程度の会戦で、徳川家康・織田信長連合軍は多数の武将が戦死し、壊走する。野戦に持込んだことを含めて、全て武田信玄軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや、徳川方の勇将、本多忠勝等の防戦により、徳川家康本人を討取ることはできずに終わる。なお、門松の習慣は平安時代からあったが、現在一般的となっている、竹を斜めに切って並べる「そぎ」にしたのは徳川家康で、竹を武田家に擬えて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めた、とされる。また、徳川家康は、この戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらったのは有名であるが、同時に武田信玄、及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになった、という説もある。武田氏滅亡後、徳川家康が武田氏の残党を抱えたのも、武田氏の重臣であった山県昌景や小幡信貞の赤備えを、自らの天下取りを全力で支えた功臣の1人、井伊直政に継がせた(井伊の赤備え)のも、敬意の表われという。ほぼ兵力を温存した状態の武田軍は、遠江国(現在の静岡県西部)で越年した後、三河国(現在の愛知県東西部)東部へ侵攻する。しかし、間もなく武田信玄の病状悪化に伴ない、武田軍は西上作戦を切上げ、領国の甲斐国(現在の山梨県)への撤退を決断する。その帰路には、武田信玄が病死するが、武田氏では武田信玄の死を秘匿し、武田信玄の四男、武田勝頼が家督を継ぐ。室町幕府第15代将軍足利義昭は、自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請する。これに対して、織田信長は不愉快に感じていたと推察され、実際に織田信長は、「元亀」年間(1570年から1573年まで)には、四面楚歌の状況に陥っている。足利義昭を京都から追放した織田信長が、公卿や朝廷を通じて、「天正」への改元に成功したと言われ、1573年に始まる「天正」年間の前期は、織田信長が天下取りへの道を着実に歩む期間となる。1575年には、長篠の戦いで、約3万8,000の織田信長・徳川家康連合軍と、約1万5,000の武田勝頼の軍勢が激突し、武田勝頼軍は敗走し、織田信長・徳川家康連合軍による武田領国への本格的侵攻を招いて、1582年の武田氏滅亡に繋がっている。 
1682年 - 天和の大火。駒込(現在の東京都豊島区に所在)の寺院、大円寺から出火したとされ、正午頃から翌朝5時頃まで延焼し続ける。死者は最大3,500名余と推定される。なお、お七火事とも称されるが、江戸本郷森川宿(現在の東京都文京区本郷6丁目付近)の八百屋の娘、お七(通称は「八百屋お七」)は、この火事では被害者である。この火事では、お七が放火した訳ではない。お七の生涯については、伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によると、お七の家は、天和の大火で焼け出され、お七は、親と共に正仙院に避難する。寺での避難生活の中でお七は、寺小姓の生田庄之介と恋仲になる。やがて、店が建て直され、お七一家は寺を引払ったが、お七の生田庄之介への想いは募るばかり。そこで、もう一度自宅が燃えれば、また生田庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、生田庄之介に会いたい一心で自宅に放火する。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)に止まったが、お七は放火の罪で捕縛され、鈴ヶ森刑場(現在の東京都品川区南大井に存在した刑場)で火刑に処せられる。 
1755年 - ロシアにおける名門大学の代表格とされ、ロシアにある大学としては最大規模で、世界的にもよく知られた総合大学の1つである、モスクワ大学が創設される。
1849年 - 世界で最も古い中央銀行の1つとなっているブルガリア(東ヨーロッパのバルカン半島に位置する国)の中央銀行、ブルガリア国立銀行が設立される。ブルガリア国立銀行は、ブルガリアの貨幣を発行する独立機関で、金融機関の監督や通貨準備を預かる役割を担っている。 
1858年 - プロイセン(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした国)皇太子フリードリヒ3世と、イギリス王女ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた、大英帝国を象徴する女王、ヴィクトリア女王の第一子)が結婚。 
1858年 - 陸奥国盛岡藩(南部藩)の採鉱技術者、大島高任が釜石(現在の岩手県釜石市)で、日本初の近代高炉(製鉄所の主要な設備で、鉄鉱石を熱処理して、鉄を取出すための炉)を建設する。 大島高任は、後の明治政府においても技術者として高く評価され、鉱業界の第一人者として活躍したことから、「日本近代製鉄の父」と呼ばれている。
1879年 - 大阪で創業した朝日新聞社が『朝日新聞』を創刊。 
1890年 - アメリカのジャーナリストで、単独世界一周旅行を行なった最初の女性でもあるネリー・ブライ(本名は、エリザベス・ジェーン・コクラン)が、72日間での世界一周を達成する。ネリー・ブライの旅行は地球一周の世界記録となったが、数ヶ月後、62日で世界一周を成し遂げたアメリカ人旅行家ジョージ・フランシス・トレインによって、この記録は破られている。 
1902年 - 北海道石狩国上川郡旭川町(現在の北海道旭川市)で最低気温-41℃を観測(日本に於ける公式の最低気温の記録)。
1904年 - 鉄道の輸送力を軍事面に最大限に奉仕させることを目指した「鉄道軍事供用令(明治37年1月25日勅令第12号)」が公布される。 
1907年 - ロシア皇帝ニコライ2世が、満州(現在の中国東北部に所在)からの撤兵を宣言。 
1909年 - ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『エレクトラ』が、ドイツ中東部にあるドレスデンのドレスデン宮廷歌劇場(現在のドレスデン州立歌劇場、ゼンパー・オーパー)で初演。 
1911年 - 第122代天皇、明治天皇の暗殺を計画したとして、大逆罪(天皇、皇后、皇太子等に危害を加えることをその内容とした犯罪類型)の容疑で多くの社会主義者、無政府主義者が逮捕・処刑された事件、幸徳事件(大逆事件)で、新聞記者の管野スガが処刑される。 
1918年 - ウクライナ人民共和国(東ヨーロッパに位置する、現在のウクライナ共和国の前身)が、ボリシェヴィキ(ロシアの革命家で政治家、ウラジーミル・レーニン率いる左派の一派)のソビエト政府から独立する。