1月25日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4木曜日 旧暦 12月15日、友引(戊子)、月齢 13.6  
グレゴリオ暦で年始から25日目、年末まであと341日。
誕生花 ハコベ・椿(白)・プリムラ・ミミナソウ・フクシア。

二十四節気・雑節等
水沢あつく堅し。
七十二候の1つ(71候)。 
 
左遷の日。
901(昌泰4/延喜元)年1月25日(旧暦)、司法・行政・立法を司る最高国家機関である太政官の職の1つで、政務を司った右大臣、菅原道真が第60代天皇、醍醐天皇によって大宰員外帥(九州の筑前国[現在の福岡県西部]に設置された地方行政機関、大宰府の長官である大宰帥の権官[正規の員数を越えて任命する官職])に左遷された。菅原道真は忠臣として名高く、第59代天皇、宇多天皇に重用されて要職を歴任し、寛平の治(宇多天皇による各種政治改革)を支えた1人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、菅原道真の才能を妬む左大臣(右大臣と共に太政官における事実上の最高位であるが、左大臣がある場合は、議政官[太政官の意思決定機関である合議体]の首座は左大臣となる)藤原時平の策略により、醍醐天皇は菅原道真のことを逆臣と思い込むようになり、菅原道真の破格の昇進に対して妬む廷臣(朝廷に仕えている臣下の者)も多く、醍醐天皇を廃立して、娘婿の斉世親王(宇多天皇の第3皇子)を皇位に就けようと謀った、と誣告(故意に事実を偽って告げること)され、菅原道真は罪を得て大宰員外帥に降格された上、菅原道真の子4名や藤原時平と対立していた宇多天皇の側近の貴族、源善らが左遷、又は流罪となった。この事件は昌泰の変と呼ばれるが、菅原道真と藤原時平との確執があった上に、宇多上皇(宇多天皇が譲位して皇位を醍醐天皇に譲ったための尊号)と醍醐天皇の路線対立、さらに、朝廷内の権力争いが背景となっている。菅原道真が京の都を去る時に詠んだ、「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名である。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んで来たという「飛梅伝説」も有名である。903(延喜3)年2月25日、無念の思いを抱きながら、菅原道真は大宰府で死去したが、923(延喜22)年4月20日には右大臣に復位し、さらに、その後の987(永延元)年、第66代天皇、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られている。
雷記念日。
菅原道真が天神(雷神)となったという言伝えから。清涼殿落雷事件(930[延長8]年、平安京の天皇の御殿、清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなった事件)が起きた6月26日の「雷記念日」もまた、菅原道真に纏わる記念日である。天神信仰とは、天神(雷神)に対する信仰のことである。特に、菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神(土着の神)に対する天津神(天上の世界「高天原」に住まう神)のことであり、特定の神の名ではなかった。しかし、930(延長8)年6月26日(旧暦)、平安京の天皇の御殿、清涼殿(現在の京都市上京区に所在)に落雷があり、大納言民部卿(民政を司る民部省の長官)であった藤原清貴らが亡くなった。清涼殿にいて難を逃れた公卿達は大混乱に陥り、第60代天皇、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿(儀式的役割を担う御殿)に避難した。しかし、惨状を目の当たりにして体調を崩し、約3ヶ月後に崩御することとなる。天皇の居所に落雷したということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫は、かつて筑前国大宰府(現在の福岡県太宰府市に所在)に左遷された貴族・学者、菅原道真の動向監視を、左大臣であった藤原時平に命じられていたこともあり、藤原清貫は菅原道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。なお、藤原時平は、菅原道真を追放して政権を掌握したが、39歳の若さで早逝している。この清涼殿落雷事件を契機に、菅原道真の怨霊が北野(現在の京都市上京区に所在)の地に祀られていた火雷神(土地を守護する神である地主神)と結び付けて考えられ、火雷天神と呼ばるようになり、菅原道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。朝廷は北野の地に北野天満宮を建立して、菅原道真の祟りを鎮めようとした。菅原道真が亡くなった太宰府にも、墓所の地に安楽寺天満宮、後の太宰府天満宮が建立された。また、949(天暦3)年には、難波京(古代日本において難波[現在の大阪市中心部に所在]の地に設営された都城)の西北の鎮めとされた大将軍社前に、一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命(天皇の命令)により大阪天満宮(天満天神、現在の大阪市北区に鎮座)が建立された。さらに、987(永延元)年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天等とも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。その後、平安時代末期から鎌倉時代にかけては怨霊として恐れられることは少くなり、この頃に描かれた、菅原道真の一代記、菅公怨霊譚、北野天神の由来・霊験を描く絵巻『北野天神縁起』によれば、この時代では、慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌等の芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになっていた。また、貿易商から海難除けの神、皇族他、歴代幕府・戦国大名等の武将達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。江戸時代以降は、菅原道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として盛んに信仰されるようになった。近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書等で取上げられた。元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨と共に起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから、農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、菅原道真が「天神さま」や「天神さん」等と呼ばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた、菅原道真とされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請(仏神の霊や像を、寺社に新たに迎えて奉安すること)も盛んに行なわれた。天神(菅原道真)を祀る神社は、天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社等という名称で、九州や西日本を中心に約1万社あるともされ、分社の数は第3位である。因みに、菅原道真と牛との関係は深く「菅原道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が菅原道真を泣いて見送った」「菅原道真は牛に乗り大宰府へ下った」「菅原道真には牛がよくなつき、菅原道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から菅原道真を守った」「菅原道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」等、牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより、牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ、臥牛の像(横たわった形の牛の像)が決まって置かれている。大阪天満宮にも牛の像が何体か安置されていて、中でもえびす門近くの青銅牛の頭を撫でると頭が良くなると言われ、特に受験生に人気となっている。梅ヶ枝餅は、主に福岡県太宰府市で販売されている餅菓子の一種である。小豆餡を薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼く焼餅で、でき上がると中心に軽く梅の刻印が入るようになっている。その名称は、太宰府天満宮の祭神である菅原道真の逸話に由来しており、梅の味や香りがする訳ではない。製造方法による分類としては、餡子入りの焼餅で「焼き菓子」である。「蒸し物」である饅頭とは異なる。太宰府天満宮近隣では、菅原道真の誕生日である845(承和12)年6月25日と、命日である903(延喜3)年3月25日に因み、毎月25日を「天神さまの日」とし、月に一度、ヨモギ入りで緑がかった色の梅ヶ枝餅が販売される。