1月22日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0646年 - 大化の改新: 改新の詔が発布される。改新の詔は、新たに即位した第36代天皇、孝徳天皇により、新たな施政方針を示すために発せられた詔(天皇の命令)である。その内容は、豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものであった、とされるが、720年に完成した、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』編纂に際し、書替えられたことが、日本史上で最初の条坊制(南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路[坊]と東西の大路[条]を碁盤の目状に組合わせた左右対称で方形の都市プラン)を布いた本格的な唐風都城、藤原京(現在の奈良県橿原市に所在すると考えられている)から出土した木簡(古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板)によって明白となり、大化の改新の諸政策は、後世の潤色であることが判明している。しかし、7世紀後半から末期頃までの時期となる、孝徳期から、「明治維新以上の日本屈指の大改革を成功させた時代」とも言われる天武・持統期(第40代天皇、天武天皇と、その皇后、第41代天皇、持統天皇の治世期)にかけて、大規模な改革が行なわれたことに違いはなく、後の律令制(成文法である律令に基づく制度)へ繋がっていく、王土王民思想(地上にある全ての土地は、天命を受けた帝王のものであり、そこに住む全ての人民は、帝王の支配物であるという思想)を基本理念とした内容であったと考えられる。 
1506年 - スイス傭兵の最初の150名が、ローマ教皇領に到着する。スイス傭兵は、主にスイス人によって構成される傭兵部隊で、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国の様々な戦争に参加している。特に、フランス王家とローマ教皇に雇われた衛兵隊が名高い。バチカンのスイス衛兵は、イタリアの首都ローマの中にある都市国家、バチカン市国と、ローマ教皇を警護する衛兵のことである。現在では、スイスは傭兵制度を廃止しているが、儀礼的要素が強いこと等から、例外として維持されている。21世紀現在では数少ない傭兵隊であり、現存する国軍では、創設時期が最古の軍である。 
1521年 - 神聖ローマ皇帝カール5世がヴォルムス帝国議会を召集し、司祭で神学者のマルティン・ルターを召喚。カール5世は、マルティン・ルターが提唱した、キリスト教世界における教会体制上の革新運動である宗教改革により、神聖ローマ帝国が解体することを恐れ、マルティン・ルターに主張の撤回を求めたが拒否される。 
1771年 - スペインが南大西洋上、アルゼンチン最南部沖にあるイギリス領フォークランド諸島のポート・エグモントを占領する。 
1841年 - 国学者・神道家・思想家の平田篤胤が、儒教批判・尊王思想により、江戸幕府から著述禁止・江戸退去命令を受ける。平田篤胤は、中国から伝来した儒教や仏教等の影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立返り、日本古来の純粋な信仰を尊ぶ「復古神道」の大成者であり、江戸時代中期の国学者・歌人である荷田春満と賀茂真淵、自宅の鈴屋(すずのや)で門人を集め講義をしたことから「鈴屋大人(すずのやのうし)」と呼ばれた、江戸時代後期の医師で国学者・文献学者、本居宣長と共に、「国学の四大人(しうし)」の1人とされる。江戸幕府から、故郷の秋田に帰るように命じられ、以後の著述を禁止された平田篤胤は、約2年後に68歳で病没するが、生前での門人が553名であったにも係わらず、1,330名もの人々が、没後に門人となっている。 
1863年 - ロシア帝国支配下のポーランド立憲王国(現在の中央ヨーロッパに位置する、ポーランド共和国を支配していた国家)で、ロシア帝国に対する武装蜂起、一月蜂起が始まる。 
1870年 - 工部省(後に逓信省と農商務省に分割・統合され、現在の総務省、日本郵政[JP]、日本電信電話[NTT]、及び農林水産省、経済産業省の前身となる)の提旗が、白布に赤文字で、「工」と書くことが定められる。
1879年 - ズールー戦争(大英帝国[イギリス帝国]とズールー王国[現在の南アフリカ共和国東南部に所在]との間で戦われた戦争): イサンドルワナの戦い。 
1879年 - ズールー戦争: ロークスドリフトの戦い。 
1889年 - コロムビア・フォノグラフ(現在のコロムビア・レコード)が創業する。アメリカに於ける音楽事業会社の、いわゆる「ビッグスリー」(ある分野の内の頂点、或いは代表的なライバル関係である3者を総称して言う言葉)の1つであるコロムビア・レコードは、アメリカのレコードレーベル(レコード会社により分けられた、個別のレコード事業部門)の1つで、現在は米国ソニー(東京都港区に本社を置く多国籍コングロマリット[複合企業とも呼ばれる、直接の関係を持たない多岐に亘る業種・業務に参入している企業体]であり、ソニーグループを統括する事業持株会社、ソニー株式会社の現地法人)完全子会社で、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨークに本社を置く音楽事業会社、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SMEI)の一部門となっている。
1889年 - 国民皆兵を理念とし、国民の兵役義務を定めた「徴兵令(明治16年12月28日太政官布告第46号)」が全部改正され、「徴兵令(明治22年1月22日法律第1号)」となり、戸主(家の代表者として、家族を統率・扶養する義務を負った者)の徴兵猶予を廃止する。
1901年 - イギリスで、ヴィクトリア女王が死去し、長男のエドワード7世が即位する。母であるヴィクトリア女王の在位が長期に亘ったため、在位は1901年から1910年までの約10年足らずであったが、エドワード7世の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれる。 
1903年 - アメリカ合衆国と、南アメリカ北西部に位置するコロンビアが、ヘイ・エラン条約に調印。アメリカ南北戦争(奴隷制存続を主張するアメリカ合衆国南部諸州の内、11州がアメリカ合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、アメリカ合衆国に留まった北部23州との間で戦争となったもの)が1865年に終結すると、一旦は沈静化していたパナマ運河(北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置するパナマ共和国のパナマ地峡を開削して、太平洋とカリブ海を結んでいる閘門[水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置]式運河)建設計画の機運が再び盛上がり、アメリカ議会は、フランスの会社からパナマ運河の工事権と資産を買入れるための行動を開始する。紆余曲折を経た1903年、アメリカ国務長官ジョン・ヘイと、駐在コロンビア代理公使トマス・エランによる運河引継ぎに関する条約、ヘイ・エラン条約が批准されることとなる。しかし、その条約批准直前、コロンビア議会がこれを否決してしまう。この事態は、莫大な運河の権利譲渡金を巡り、フランスの会社とコロンビア政府との間で対立が起きていたためであるが、この時、コロンビア共和国の一部であったパナマ地峡は、この否決後、アメリカがパナマ独立運動家マヌエル・アマドール、フィリップ・ビュノー・バリーヤを支援し、同年10月、無血革命により、パナマ共和国として独立を果たす。 
1905年 - 血の日曜日事件。ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルク(ロシア西部の都市で、1917年までロシア帝国の首都であったが、外国からの干渉を恐れ、首都はより国境から遠いモスクワに移転されている)で行なわれた、参加者約11万とされる、労働者による皇宮への平和的な請願行進に対して、政府当局に動員された軍隊が発砲する。1,000名以上が死亡し、ロシア第一革命のきっかけとなる。 
1916年 - 陸軍の飛行船『雄飛号』が、所沢 - 大阪間で実験飛行を行なう。 
1917年 - アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが、「勝利なき平和を」と、第一次世界大戦休戦を両陣営に呼掛ける。 
1919年 - 東ヨーロッパに位置する、現代のウクライナの前身とされる国、ウクライナ人民共和国と、西ウクライナ人民共和国(現在のウクライナ南西部を中心とした地域、ハルィチナー地方を支配していた国)が統一条約に調印。 
1924年 - イギリスの中道左派政党で、中道右派政党の保守党と共に二大政党制を形成する、労働党の党首、ラムゼイ・マクドナルドがイギリス首相に就任。イギリス史上初の労働党出身の首相となる。 
1934年 - ソビエト連邦の作曲家、ドミートリイ・ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が、レニングラード(現在のロシア西部に位置するサンクトペテルブルク)で初演される。
1941年 - 第二次世界大戦: イギリス軍のコンパス作戦(北アフリカ方面での反攻作戦)で、イタリアのトブルク要塞(北アフリカに位置するリビア東部の地中海岸にあり、北アフリカでは随一と言われる天然良港をもつトブルクに築かれた要塞)が陥落する。 
1944年 - 第二次世界大戦: アンツィオの戦いが始まる。イタリア半島中部に位置し、西海岸(ティレニア海)に面するアンツィオへの上陸作戦が開始される。イタリア南部を横切るローマの戦略的防衛ライン「グスタフ・ライン」のドイツ軍を包囲することを目的として実施された作戦、シングル作戦の一環となるもので、上陸作戦は、ドイツ軍に備えが無く、成功している。