1月20日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

デヴィッド・ボウイの日(David Bowie Day)。
2016(平成28)年、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市の市長ビル・デブラシオが、ニューヨーク市にあるブロードウェイの劇場『ニューヨーク・シアター・ワークショップ』で上演された、デヴィッド・ボウイによって共同制作された舞台作品『ラザルス』最終公演日の1月20日に、この日を「デヴィッド・ボウイの日(David Bowie Day)」にする声明文を読上げた。デヴィッド・ボウイは、イギリスの老舗週刊音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)』が、2000(平成12)年にミュージシャンを対象に行なったアンケートでは、「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」に選ばれている。また、「メジャーなカルトヒーロー」と言われ、時代時代の音楽に対する明敏さを生かし、それまでとは打って変わった音楽性という実験を繰返しながら、様々な意味での自己刷新を計ることが多いため、安定した商業面での成功を収めるには不利と言えるが、セールス的には成功している部類に入り、アーティステックな面と商業面をうまく両立させている、数少ないミュージシャンの内の1人である。1973(昭和48)年に初の日本公演を果たしているデヴィッド・ボウイが、大の日本好きであったことはよく知られており、デヴィッド・ボウイのステージパフォーマンスには、日本文化の要素が幾つも取入れられていた。因みに、1980(昭和55)年頃には京都市東山区に住んでいたとされ、商店街に写真が残っている。デヴィッド・ボウイは2016(平成28)年1月10日、約18ヶ月の闘病の末、肝癌により死去した。2日前の69歳の誕生日にアルバム『ブラックスター』をリリースしたばかりであった。その収録曲「Lazarus」は、自らの死期を悟っていたデヴィッド・ボウイが、アルバム『ブラックスター』のプロデュースを担当した、アメリカの音楽プロデューサー・編曲家のトニー・ヴィスコンティと共に、ファンへの最後のメッセージを盛込んだ内容となっている。なお、1947(昭和22)年1月8日はデヴィッド・ボウイの誕生日で、「キング・オブ・ロックンロール」や「キング」と称され、ギネス世界記録(イギリスの出版社、ギネスワールドレコーズが、地球上のあらゆる世界一を探求し、認定・登録してきた記録集)では、「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている、アメリカのミュージシャン・歌手・俳優のエルヴィス・プレスリーの誕生日、1935(昭和10)年1月8日と日付が同じであることから、1月8日は、「ロックの日(エルヴィス・プレスリーの日)」とされている。
トゥー・チェロズの日。
2011(平成23)年1月20日、2本のチェロだけで演奏した超絶パフォーマンス映像を動画サイトにアップしたことをきっかけに、世界的な注目を集めたクロアチア(南東ヨーロッパのバルカン半島に所在する)出身のルカ・スーリッチとステファン・ハウザーの「トゥー・チェロズ(2CELLOS)」。ルカ・スーリッチとステファン・ハウザーは、日本での留学経験もあり、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の直後からライヴ活動で被災者支援を続けている。チェロで世界の人達と繋がるために結成したユニットの誕生日を記念日にと、所属先で、音楽・映像ソフトの企画、制作、プロモーションを行なう、エレクトロニクスを始め、ゲーム、エンターテインメント(映画・音楽・アニメ)、金融(保険・銀行)等、様々な分野の企業を包括するソニーグループ傘下のレコード会社、株式会社ソニー・ミュージックレーベルズが制定した。ソニーグループの音楽系事業統括会社、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントは、1968(昭和43)年に日米合弁会社、CBS・ソニーレコード株式会社として設立され、1991(平成3)年、現社名に社名変更した。2014(平成26)年、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントの傘下にある8つのレーベル(レコードの制作・販売に当たる会社の中にある、音楽性やターゲット等によって分けられた部門)が合併して発足したのが、東京都千代田区六番町に本社を置く株式会社ソニー・ミュージックレーベルズである。
シマエナガの日。
北海道に生息する野鳥の「シマエナガ」は、真っ白な体につぶらな瞳の可愛らしい見た目から、「雪の妖精」とも呼ばれている。その「シマエナガ」を愛し、SNSアカウント「ぼく、シマエナガ。」を運営する、写真家のやなぎさわごうが制定。記念日を通じて、「シマエナガ」の魅力をさらに多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、「シマエナガ」は寒ければ寒い程、羽の中に空気を入れて膨らむことから、1年で最も寒い日とされる二十四節気の1つ、大寒の日としたもの。「シマエナガ」は、スズメ目エナガ科エナガ属に分類される鳥類の一種、エナガの亜種で、日本では北海道にだけ生息している。エナガは、日本では九州以北に留鳥、又は漂鳥として生息し、渡りはしない。和名は極端に長い尾(全長約14cmに対して、尾の長さが約7cmから約8cm)を柄の長い柄杓に例えたことに由来し、江戸時代には「柄長柄杓(えながひしゃく)」「柄柄杓(えびしゃく)」「尾長柄杓(おながひしゃく)」「柄長鳥(えながどり)」等とも呼ばれていた。日本産の亜種として、シマエナガ(北海道)・エナガ(本州等)・キュウシュウエナガ(四国、及び九州)・チョウセンエナガ(対馬等)の4亜種が生息するが、北方系亜種であるシマエナガを除き、いずれも南方系の亜種である。南方系3亜種の場合、(成鳥の)亜種間の羽色には、殆ど差異はない。また、幼鳥には、亜種間の差異は殆どない。
乙字忌、二十日忌。
俳人で、俳論家としても知られる大須賀乙字の1920(大正9)年の忌日。その日付から、「二十日忌」ともされる。大須賀乙字は、従来の五七五調の形に捉われない新傾向俳句運動のロ火を切ったが、後に伝統を尊重する側に変わった。40歳で夭折し、俳論家としての活動期間は10年余りに過ぎなかったが、その間、俳人・歌人の正岡子規に代表される明治俳論史上に、新しく近代的な画期的とも言える俳論の金字塔を打立てた。 
暁台忌。
江戸時代中期の俳諧師、加藤暁台の1792(寛政4)年の忌日(旧暦)。加藤暁台は、尾張国/美濃国/三河国尾張藩の武士から俳諧師となった。芭蕉風俳諧(蕉風、江戸時代前期の俳諧師、松尾芭蕉の句風)を慕い、その復興運動に努めた。 
義仲忌。
木曾義仲の名でも知られる源義仲の1184(元暦元)年の忌日(旧暦)。源義仲は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の従兄弟に当たり、第77代天皇、後白河天皇の第三皇子である以仁王の令旨(本来、皇太子の命令を伝える文書が令旨とされるが、皇太子でも親王でもない以仁王が、命令の正統性を高めるために敢えて発したもの)によって挙兵、都から逃れたその遺児(以仁王の第一王子)を北陸宮として擁護し、越中国と加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町との境界に所在)で戦われた合戦、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入等により、後白河法皇(第77代天皇、後白河天皇が譲位・出家して引続き政務に当たっていた時[院政]の称号)と不和となる。そして、源頼朝が送った、源頼朝の異母弟源範頼と源義経の軍勢により、近江国粟津 (現在の滋賀県大津市に所在)で討たれた。源義仲の墓所は、室町時代に没地近くに開かれた朝日山義仲寺にある。義仲寺は、江戸時代前期に活躍し、日本史上最高の俳諧師の1人とされる、松尾芭蕉の墓があることでも有名な寺である。松尾芭蕉はかねがね、源義仲の生涯に思いを寄せ、生前から源義仲の隣に葬って欲しいと言っていた。松尾芭蕉は江戸に在住であったが、大阪の句会に出席した時に亡くなったため、弟子が義仲寺に運んだという。