1月17日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-038年 - ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)と、リウィア(リウィア・ドルシッラ)の結婚式が挙行される。リウィア(リウィア・ドルシッラ)が属するクラウディウス氏族は、ローマ共和政初期からの名門で、結婚後のアウグストゥス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)は着実に、自らの権力基盤を固めている。
1377年 - ローマ教皇グレゴリウス11世が、現在のフランス南東部にあるアヴィニョンからローマに帰還し、アヴィニョン捕囚(キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた1309年からの時期)が終了する。 
1400年 - 周防国・長門国等の守護大名、大内義弘が戦死して室町幕府方が勝利し、応永の乱が終結する。将軍集権体制を目指し、大守護抑圧政策を採った室町幕府第3代将軍足利義満は、中国明朝との貿易により巨富を蓄え、強勢を誇った大内義弘を挑発して、関東公方足利満兼と結んで和泉堺(現在の大阪府堺市)に挙兵した大内義弘を敗死させる。室町幕府の将軍は、有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体であり、室町幕府第3代将軍足利義満は、将軍権力を強化するため、北小路室町(現在の京都市上京区京都御苑周辺に所在)に広大な敷地を有する邸宅(「花の御所」とも呼ばれる)を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強する。1397年、足利義満は北山第(現在の京都市北区金閣寺町に所在する鹿苑寺で、足利義満の邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された)の造営を始め、諸大名に人数の供出を求める。しかし、諸大名の中で大内義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、足利義満の不興を買っている。1399年10月13日、大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させるが、自身は参洛しなかったことから、足利義満の元に大内義弘謀反の噂が伝わる。幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆100余艘が封鎖する。和泉堺では、一度は幕府軍の総攻撃を撃退した大内勢が意気を揚げていたが、幕府軍は火攻めを計画して、左義長(爆竹)を用意して道を整え、12月21日早朝に総攻撃を開始する。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せ、大内義弘は、幕府軍の一翼であった畠山満家(後に河内国・紀伊国・越中国3ヶ国の守護となり、管領[室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職で、将軍を補佐して幕政を統轄した]として、室町幕府第4代将軍足利義持から第5代将軍足利義量、そして第6代将軍足利義教の代まで幕政に重きを成した)に討取られ、その他の大内勢も落延びるか自害し、堺は落城する。なお、大内義弘は優れた武人であり、骨のある武将であったと伝えられる。一方で歌道に優れ、高名な連歌(鎌倉時代頃から興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種で、多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール[式目]を基にして、全体的な構造を持つ)師宗碩との交流があった他、勅撰(天皇や上皇の命により編集されたもの)和歌集『新後拾遺和歌集』の作者に列する程の文化人でもあった、とされる。
1524年 - イタリアの探検家、ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが北西航路(北アメリカ大陸の北側に位置する、カナダ北極諸島の間にある海峡を抜けて、太平洋と大西洋を結ぶ航路のことであり、ヨーロッパから北西へ延びる航路であることからその名が付いた)発見のための航海に出発。ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノは、北アメリカ大西洋岸を探検した最初のヨーロッパ人、ということになっている。 
1580年 - 三木合戦(三木の干殺し)が終結。羽柴秀吉が三木城を陥落させる。 
1594年 - 日本初の木製活字本となる儒家経典(仁を根本とする政治・道徳を説いた孔子を祖とする中国の教説、儒教の経典)『古文孝経』が印刷される。 
1773年 - 海軍軍人で海洋探検家、ジェームズ・クックらがヨーロッパ人で初めて南極圏(南緯66度33分以南で、 南半球の地理学上の寒帯と温帯とを区分する境界)に到達する。ジェームズ・クックは、多数の地域を正確に測量し、幾つかの島や海岸線を、ヨーロッパに初めて報告している。ジェームズ・クックの幾多の偉大な功績をもたらしたのは、卓越した航海術、優れた調査と地図作成技術、真実を確かめるためには、危険な地域も探検する勇気(南極圏への突入等)、逆境での統率力、海軍省の指令の枠に納まらない探検範囲と気宇の壮大さ、等、これらの全てであったと言える。 
1781年 - アメリカ独立戦争: カウペンスの戦い。 
1798年 - 現在の東京都文京区に所在する孔子廟(孔子を祀っている霊廟)で、私塾(民間の教育機関)ともなっていた「湯島聖堂」を教学施設「昌平坂学問所」と改称し、江戸幕府の直轄とする。 
1874年 - 明治政府の要職を辞した元土佐国土佐藩藩士で政治家・自由民権運動指導者の板垣退助や、元土佐国土佐藩藩士で政治家の後藤象二郎らが、政府に民撰議院設立建白書(最初に民選の議会開設を要望した文書)を提出。 
1873年 - モードック戦争(アメリカ合衆国の民族浄化に反抗して、溶岩地帯に立籠もったインディアン部族[現在のアメリカ合衆国北部や中西部に先住する部族]の抵抗戦): 最初の砦の戦い。 
1881年 - 明治大学の母体となる明治法律学校が創立される。明治法律学校は、司法省法学校(明治初期に司法省[現在の法務省の源流の1つ]が管轄した明法寮[法律実務の専門家を養成する機関]を起源に持ち、フランス法を専門とする、司法官養成のための教育機関)出身者によって設立され、フランス法学を講じる仏法系学校であり、いわゆる「五大法律学校」の1つに数えられる。また、薩長藩閥(明治維新後、有力な特定藩の出身者が政府の要職を独占して結成した、政治的な派閥)政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障等の要求を掲げた、自由民権運動と強い関わりを持ちつつ発展し、法典論争においては「実施断行論」の立場を採っている。日本で西洋近代法を習得した第一世代に当たり、司法省法学校の第一期卒業生となった岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操の3名が中心となり、1880年12月、「法理を講究し其真諦を拡張」することを標榜して創立され、翌1881年1月に開校される。開校に際しては、旧因幡国/伯耆国鳥取藩藩主の池田輝知、及び、旧肥前国島原藩藩主の松平忠和の財政的援助を受け、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)有楽町数寄屋橋内の旧松平忠和邸「三楽舎」を校舎としている。また、講師には、留仏帰りの西園寺公望(公家・政治家・教育者で、後には、第12代・第14代首相となっている)、司法省の御雇教師(幕末から明治にかけて、欧米の技術、学問、制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推進しようとする政府や府県等によって雇用された外国人)の仏人ジョルジュ・アッペール、そして、司法省法学校卒業生が多く参加する等、当初からフランス流法学の影響下にあり、これを講じる学校として出発する。明治法律学校は元々、政府公認の準官学的な法律学校として出発した筈であったが、当時高まりを見せていた自由民権運動の影響を受け、急速に野党色を強め、特に、政治家・自由民権運動指導者の板垣退助らが結成した日本初の近代政党、自由党(1881年に結成されたが、1884年に急進派の行動を抑え切ることができず解散した)を支える人材を生むことになる。この点、明治法律学校に対抗して設立された、同じ仏法系の東京法学校(司法省・司法省法学校関係者の支援を受けて設立された、準官学的な私立の法律学校で、当時の法学の主流であったフランス法学を講じ、「五大法律学校」の1つに数えられた)が、司法省の強い影響下にあったこととは対照的で、両校は学生の獲得を巡って、授業料値下げ等の競争や対立が繰広げられ、ついには共倒れ寸前に至ったため、明治10年代末にようやく和議が成立する。その後、帝国大学(現在の東京大学の前身)を中心としたイギリス法学の台頭を背景に、1888年末には、東京法学校と東京仏学校(フランス学、及び、法律学を修めるために設立された旧制高等教育機関)との間で、これに対抗して、同じ仏法系学校として合併しようとする構想が起こったが、野党色の強い明治法律学校は、結局これに参加していない(東京法学校と東京仏学校は合同して和仏法律学校となり、現在の法政大学の前身となっている)。 
1885年 - マフディー戦争(北アフリカに位置するスーダンで行なわれた植民地戦争): アブクレアの戦い。 
1887年 - 第122代天皇、明治天皇の皇后、皇后美子(後の昭憲皇太后)が、婦人の洋装を奨める思召書「婦女服制の事」を伝達する。