1月17日 記念日 その6 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

明治大学創立記念日。
1881(明治14)年1月17日、「近代市民社会を担う聡明な若者を育成する」 ことを目指し、現在の明治大学の母体となる明治法律学校が、現在の東京都千代田区有楽町、数寄屋橋にある旧肥前国島原藩藩邸内で開校された。当時20代の青年法律家達、刑法学者・政治家の宮城浩蔵、法学者の岸本辰雄、法学者の矢代操によって創設されたもので、1886(明治19)年には法律学部と行政学部の2学部が設置され、その後も整備が進められて、1903(明治36)年3月には私立「明治大学」への改称が認可された。しかし、この時点では、制度上の大学(旧制大学、現在の大学の3年次・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程等に相当)ではなく、「専門学校令(明治36年3月27日勅令61号)」に基づく旧制専門学校専門(教育を行なっていた高等教育機関)となったに過ぎず、「大学令(大正7年12月6日勅令第388号)」に準拠して、名実共に大学昇格を果たすのは、1920(大正9)年4月16日のこととなる。現在の明治大学の大学本部、及び文系学部や大学院等は、文化・文教施設が集積し、「日本のカルチエ・ラタン(高等教育機関が集中しており、昔から学生街として有名なフランスの首都パリにある地域)」とも呼ばれる国内最大の学生街、御茶ノ水(東京都千代田区神田駿河台)に立地しており、東京都心部に位置する都心型総合大学である。主要調査機関による現役高校生志願度調査等では、年度によって1位になる等、例年、国内最大規模の入試が行なわれている。大学の略称は「明大」であり「めいだい」と発音する他、 東京都杉並区永福にある和泉キャンパスの最寄には京王電鉄京王線と井の頭線の交差駅である「明大前駅」も存在する。「明大前駅」は、京王線、井の頭線の主要駅で、回送列車を含めた全ての列車が停車する。京王線と井の頭線は「明大前駅」で立体交差している。京王線の「明大前駅」は、1913(大正2)年に京王電気軌道(現在の京王電鉄の前身の1つ)の「火薬庫前駅」として開業し、1917(大正6)年には「松原駅」に改称され、1935(昭和10)年に「明大前駅」に改称された。井の頭線の「明大前駅」は、1933(昭和8)年に帝都電鉄(現在の京王電鉄の前身の1つ)の西松原駅として開業し、京王線と同時に「明大前駅」に改称された。1935(昭和10)年に、明治大学予科(当時)が駅の近くに移転したのに伴ない、「明大前(明治大学前)」と名付けられている。また、開業時の駅名「火薬庫前」は少し物々しい名前であるが、甲州街道(国道20号)沿いに江戸時代に徳川幕府の煙硝蔵(鉄砲・火薬等の貯蔵施設)があったことに由来する。この周辺地域では、野火等の火の用心のためか、特に禁猟となっていた。明治時代になり、火薬庫は陸軍管轄になったが、あまり使われなかったようである。明治大学は、創立時からの伝統によって確立された建学の精神「権利自由、独立自治」に基づき、自由と自治の精神を養うことを理念とし、「知の創造と人材の育成を通し、自由で平和、豊かな社会を実現する」ことを大学の使命としている。国際社会を牽引する「世界に開かれた大学」を目指すとしている。大学の公式パンフレット等では 「個を強くする都心型大学」をキャッチフレーズとして使用することも多い。フランス法学を講じる仏法系学校であり、いわゆる「五大法律学校」の1つに数えられた明治法律学校を起源としているが、商学部、経営学部を私学で初めて設置する等、伝統的に商学でも知られる。人文系でも、演劇学、考古学等、歴史・伝統をもつ専攻を多く有する。文学部も、第二次世界大戦前の文科専門部時代から、著名文学者が教鞭を執ってきた伝統をもつ。講師を務めた主な文学者には、日本を代表する文豪の1人とされる作家・評論家・英文学者の夏目漱石、主に、ヨーロッパの詩人の詩の訳詩集で、日本に初めて、言語のもつ音楽的・映像的な側面に着目し、直接には掴みにくい想念の世界を、暗示的に表現しようとした、象徴派の詩を紹介した訳詩集『海潮音』で知られる、文学者・評論家・啓蒙家・翻訳家の上田敏、大正から昭和にかけて活躍した劇作家・作家・政治家の山本有三、近代日本の文芸評論の確立者とされる雑誌編集者・作家・文芸評論家の小林秀雄、等がいる。農学部は、経済産業省の支援による拠点整備事業として、食料の安定的供給と農業の産業化を実現していく「植物工場」(内部環境をコントロールした閉鎖的、又は半閉鎖的な空間で、植物を計画的に生産するシステム)に関する研究開発・人材育成の全国8大拠点の1つである。化粧品や食品の研究もあり、女子比率が50%を超える学科もある。 
今月今夜の月の日。
作家、尾崎紅葉による、明治時代の代表的な長編小説『金色夜叉』の中で、主人公の間寛一が熱海(静岡県熱海市)の海岸で、間貫一を裏切った恋人のお宮(鴫沢宮)に「いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せる」からと言放ったことから。この日の夜の曇り空を「貫一曇り」という。なお、『金色夜叉』は、前編、中編、後編、続金色夜叉、続続金色夜叉、新続金色夜叉の6編からなっているが、執筆中に作者の尾崎紅葉が死亡したため未完成である。尾崎紅葉門下の作家、小栗風葉が1909(明治42)年に「終編金色夜叉」を書き継いだ。昭和時代に入って、度々、映画、ドラマ化されるようになった。『金色夜叉』の種本は、イギリス生まれの女流作家バーサ・M・クレー(当時の人気作家で、驚異的なスピードで次々にベストセラーを発表し、伝説の多作家と称されるが、他の作家がこの筆名を共有し、作品を濫造するに至って人気を失い、その名は市場から姿を消した)の著作、長編小説『女より弱きもの』(女性向け通俗小説シリーズの1冊)であることが、2000(平成12)年7月に、当時北里大学講師であった、比較文学者の堀啓子によって証明されている。ベストセラー作家でありながら、30代の若さで病死した尾崎紅葉は、余命3ヶ月という宣告を受けながらも、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)にある出版関係商社の丸善に、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を注文する等、西欧文化の吸収に余念がなかった。明治時代は、知的財産や著作権等に対して、今より厳しくなかったようで、外国の面白い小説があると、そのアイデアを借用して小説を書いていたという。未完の長編小説『金色夜叉』は、英米のロマンス小説に通暁した尾崎紅葉が、長編小説『女より弱きもの』のストーリーを、日本に置換えたもの、という訳である。
尾崎紅葉祭。 
作家、尾崎紅葉の長編小説『金色夜叉』の中で、この日、1月17日に熱海の海岸で、主人公の間貫一が恋人のお宮(鴫沢宮)と別れる記述があることから。熱海では、この日に尾崎紅葉の偉業を称え、遺徳を偲ぶ「尾崎紅葉祭」が行なわれ、熱海芸妓による『金色夜叉』の名場面が舞踊で再現される。なお、尾崎紅葉の1903(明治36)年の忌日である10月30日は、「紅葉忌」「十千萬堂忌」となっている。尾崎紅葉は、1889(明治22)年に発表した短編小説『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、短編集『伽羅枕』や長編小説『多情多恨』等を書き、擬古典主義(浮世草子・人形浄瑠璃作者で俳諧師でもある井原西鶴らの元禄文学等を見直そうとする古典回帰運動)の代表的作家、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇の重きをなした。尾崎紅葉の作品は、その華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から、江戸時代の浮世草紙の創始者、井原西鶴を思わせる風俗描写の巧みさによって評価された。因みに、現在の東京都港区芝大門に所在する老舗和菓子店、芝神明榮太樓の銘菓「江の嶋」最中は、1902(明治35)年2月に、尾崎紅葉が名付け、題字を認めたものであり、尾崎紅葉の本を多く装丁し、尾崎紅葉とは名コンビとされた、明治期から大正期の浮世絵師・挿絵画家、武内桂舟の下絵と共に、今でも用いられており、現在まで続くロングセラー商品となっている。