1月17日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

湾岸戦争開戦の日。
1991(平成3)年1月17日、アメリカ軍を主力とする多国籍軍(連合軍)が、中東・西アジアに位置するイラクとクウェートのイラク軍拠点に攻撃を開始し(「砂漠の嵐作戦」と呼ばれるイラクへの爆撃作戦)、湾岸戦争が勃発した。この日に設定されていた撤退期限が過ぎても、イラク軍がクウェートから撤退しなかったため、多国籍軍(連合軍)は攻撃に踏切った。その後、1ヶ月以上に亘って行なわれた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設は殆ど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止され、その同日に多国籍軍は地上戦(「砂漠の剣」作戦)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は、度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また、一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は反撃もできずに一方的に撃破され、続々と投降した。2月27日には、クウェートの首都クウェート市が解放され、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。同日中にアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが停戦を発表し、イラク大統領サッダーム・フセインは敗戦を認めた。3月3日には暫定停戦協定が結ばれ、戦争が終結した。1990(平成2)年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めると共に、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決し、マルタ会談(1989[平成元]年12月2日から12月3日にかけて、南ヨーロッパの地中海上に位置するマルタで行なわれた、アメリカ合衆国とソビエト連邦両国の首脳会談で、これをもって、44年間続いた東西冷戦は終結した)と共に当時の冷戦の終結を象徴した。翌年1月17日、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼掛けた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍(連合軍)が構成された。アメリカ軍が多くを占めるこの多国籍軍(連合軍)には、イギリスやフランス等といったヨーロッパのみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国や、アラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じバアス党(汎アラブ主義政党)政権のシリアのような親ソビエト連邦の国も参加した。国際連合により認可された、34ヶ国の諸国連合からなる多国籍軍(連合軍)は、バース党政権下のイラクへの攻撃態勢を整えていった。イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国際連合憲章第42条に基づき、1991(平成3)年1月17日にイラクへの侵略を開始した。空中戦、及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクは短距離弾道ミサイル 「スカッド」をサウジアラビア、及びイスラエルに向け発射した。イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるという、イラク大統領サッダーム・フセインの目論み通りになることを恐れたアメリカや国際連合の要請によって、イスラエル政府は動かず、イラク大統領サッダーム・フセインの目論みは失敗した。アメリカは急遽、イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時は殆ど撃墜したと主張していた。しかし、本来パトリオット地対空ミサイルシステムは、対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それ程役に立っていなかったことが判明した。これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応の迎撃システム、パトリオットミサイル PAC-3を開発した。1月29日には、イラク軍はサウジアラビア領のペルシャ湾上にあるカフジ油田を奇襲攻撃した。しかし、戦略も何もなく、また、多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌1月30日に撤退した。3月3日、イラク代表が暫定休戦協定を受入れたが、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった。トマホーク巡航ミサイル、劣化ウラン弾、ステルス攻撃機ロッキードF-117ナイトホーク、パトリオットミサイル、バンカーバスター地中貫通爆弾、全地球測位システム(GPS)、戦闘爆撃機マクドネル・ダグラスF-15Eストライクイーグル等、この戦争において、特にアメリカは、数々の新兵器を投入した。中には、近接航空支援(CAS)専用機フェアチャイルド・リパブリックA-10サンダーボルトIIの様に、冷戦終結により一度は存在価値(欧州配備)を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。アメリカ空軍のAGM-130誘導ミサイルといった誘導爆弾は、他の無誘導爆弾に比べ、実戦経験は少なかったにも係わらず、過去の戦争と比べ軍事攻撃における市民への被害を最小限にできると評価された。ジャーナリスト達が、巡航ミサイルが飛び交うのをホテルから眺める中、イラクの首都バグダッド中心部の特定の建造物への爆撃は行なわれた。アメリカ合衆国によって運用される衛星測位システム(地球上の現在位置を測定するためのシステム)、全地球測位システム(GPS)は、砂漠全域における円滑な部隊運用を可能にした。航空機の大型化や機器の電子化・自動化の進展により実用化した、大型レーダーを搭載し、一定空域内の敵性・友軍の航空機といった空中目標を探知・分析し、なおかつ、友軍への航空管制や指揮を行なう早期警戒管制機 (AWACS)、及び、衛星通信システムもまた、重要な役割を果たした。これらのシステムは、陸軍、空軍、そして海軍間の必要不可欠な通信リンクを提供した。そして、これは多国籍軍が空戦において圧倒的優位に立った、多くの理由の内の1つである。日本では石油価格が値上がりし、バブル景気(資産価格の上昇と好景気、及びそれに付随して起こった社会現象)の最中ながら、原油の多くを中東からの輸入に依存していた日本経済を直撃、その終焉と時をほぼ同じくして、一気に1991(平成3)年3月から1993(平成5)年10月までの景気後退期、いわゆるバブル崩壊を招いた。さらに、アメリカ政府は同盟国として、戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は、多国籍軍に対し、計130億ドル以上に及ぶ資金援助を行なったが、人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした参戦国から、金だけ出す姿勢を非難され、孤立した。因みに、ドイツも同様に非戦協力のみであったが、格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも、中央上段に国名が掲載されている。これを受けて、「人的貢献がなければ評価されない」との合意形成(コンセンサス、関係者の根底にある多様な価値を顕在化させ、意思決定において相互の意見の一致を図る過程)が生じ、日本政府は、国際連合平和維持活動(PKO)への参加を可能にする「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法、平成4年6月19日法律第79号)」を成立させた。この「PKO協力法」が施行されたことにより、自衛隊は国際連合平和維持活動(PKO)に参加できるようになった。「PKO協力法」成立により、内閣府の特別の機関(特に必要がある場合に設置される機関で、専門色が強く、相当の規模を要する行政分野で、「省」に格上げする程でないものは「庁」として設置されるが、外局である「庁」とするまでに至らない「準外局」的な組織を設置したい時に、この「特別の機関」とすることが多い)、国際平和協力本部が設置され、国際平和協力業務実施計画、国際平和協力業務実施要領等の立案や策定を行なって、派遣先国に出向いての現地調査や、国際連合平和維持軍等との情報交換を実施している。それらの計画に基づいて「国際平和協力隊」を編成し、国際平和協力隊派遣後も、隊の運用や関係諸機関との調整を担っている。